入試が終わってこのblogがとんとごぶさたになってしまっているのは、現実に圧倒されたせい。例年同じことを同じように経験している筈なんだが、…。別に結果がふるわなくて落ち込んでいるとか、そういうことではないです。どちらかといえば、自分が直接進路指導している教室の生徒たちは(これも例年どおり)圧勝だった。それも速攻での第一志望校合格を勝ち得てきていたので、気分はいい筈なんだが。
まさか年齢のせいだろうか?
受験時期のこの1週間は、それこそここに書いておきたいエピソードは次から次へとあって、どれも覚えておきたいことばかりなんで、多分、まあ、…いつかはちゃんと書く。昨年の記事も、別のところで書き残している一昨年の記事も、今回やっぱり受験前に読み返して、あれこれ細部のディティールを思い出し準備の抜けを防いでくれたし、同時に勇気を沸き起こしてくれもしたしね。
ぼちぼち、忘れる前に書いてはいくつもり。
受験が終わってから、まだそのぼんやりの余韻を体の半分? いや4分の1ほどに残し、あとの残りすべてで次年度の準備をしている。気分的にも作業量的にも結構、この時期は大変なのだ。大きな仕事をひとつ終えて、それがきちんとした終わりや安堵や休息を得ることもなく次へと続くというのはあまり精神衛生上よろしくないと思うんだが、世間の仕事ってたいがいそうなのかしら。
ここ数日、自分から積極的に手を抜くようにしてる。抜いても、やらならない仕事、作っておかないとならないプリント・書類・レポートなんかの量はフィジカルに変わらないから、結局は気分的なところだけ。あ、それから、決められている出勤時間に入るとか。だいたいが勤務時間の2時間も3時間も前に入って仕事をしてしまうクチなので、時間10分前に入室なんて習慣として出来ないんだよ。それを意図的にする。
昨日はそれで午前中に早起きして朝から上映の映画を。観てから教室に飛んで入り、そこから作業、新しく入った人の研修。夜には、あまり愉快ではないレポートを一本上げる。
観たのは『茶々 天涯の貴妃』。もとより自分の守備範囲にある作品じゃないんだが。
主人公は豊臣秀吉の世継ぎを産んだ淀君。その淀君と二人の妹の三姉妹が、戦乱の時代の男たちに翻弄されながらも毅然と生きていく姿をいかにも伝統的な時代劇として描いていく。美術や、キャスティングでなかなかチャレンジしているのだが、フォーマットは長い蓄積に基づく安定感のある映画なので、安心して観ていられた。東映のあの△のマークが荒波の前にドーンと浮かぶのを劇場で観たのって何年ぶりだろう。『バトルロワイヤル』もDVDで観たしな。
映画眼に信頼のおける知人が昨年のベスト1だといっていたので観る気になった。そうでなければ観てない。観てよかったよ。
僕は個人的には、世間の評価やイメージと違い、織田信長よりも秀吉の方が血に飢えた狂人だと思っている。信長は松方弘樹、秀吉は渡部篤郎。よかった。
昨年、観たいといいながら結局観逃し、あとで観た人から話を聞いて口惜しい思いをさせられたことが何度かあって、今年はその反省を出来る限り活かそうと思っている。『キサラギ』とかね。
年が明けて一作目が『椿三十郎』、次に『魍魎の匣』を観て、…なんかいまひとつだな、…と思いつつ、払拭してくれと願うような気持ちで『茶々』を。ここ数日の間には『ヒトラーの贋札』を観るつもり。
blogだけでなく、ここ数年、毎月小説をupするというサイトを続けていたのだが、先月、それを落としてしまった。本当に、サラリと。ずっと書き続けていたのに。
書く、というチャンネルが自分のなかで違う入り方をするようになってしまっている、と先日の記事でも書いた(と思う)が、いずれにしろ積極性みたいなもの? あるいはエンジンの掛け方を見失っていたというのは正直なところ。
ただし、日常のすべてにおいてそうなのか、情熱を失っているのかというとそうでもなく、仕事も恋愛もお買い物も楽しくやっている。「書く」というアクセルの踏み方を忘れていた感じ。
実は昨日の夜、それを思い出させてくれる出来事があった。
先に書いた、あまり愉快ではないレポートがそれで、始末書ではないが、まあそれに近いある種類の不振の分析を上司に文書で上げなければならなかったのだ。なにより、それが不振であるという判断が、われわれ現場と上との間でズレがあり(その判断の根拠がスレる)納得はいかないままに、自分では不振だと認められないままに、その分析をしなければならなかった。そのレポートが、上手く書けたのだ。
内容について納得したのではなく、こちらの言い分と上の希望と先の展望とを限られた枚数にきちんと収め、なおかつ無駄のないレポートになった。それで元気が出た、というか、自分の書く文章への偏愛に気づかされ、書くっていいな、とかオレの文章ってやっぱりよいね、と思った次第。ああ、…だよな、まったく。内容も、その文書の今後の扱いも、少しも楽しいことはなく、いやむしろ次の会議でそれらの提出された文書を巡って場合によってはかなりの不愉快で大変な出来事の発生が想定されているというのに、私人としての自分がそれで救われちゃうなんてな。不条理だ。
そんなこともあって、今朝方がじきに上がってくる同人誌の2号へ添付するオマケ? あとがきめいた文章をもつらつらと書き、そのイキオイでもしかするとblogも書けるかも、とこうして書いている次第。
まさか年齢のせいだろうか?
受験時期のこの1週間は、それこそここに書いておきたいエピソードは次から次へとあって、どれも覚えておきたいことばかりなんで、多分、まあ、…いつかはちゃんと書く。昨年の記事も、別のところで書き残している一昨年の記事も、今回やっぱり受験前に読み返して、あれこれ細部のディティールを思い出し準備の抜けを防いでくれたし、同時に勇気を沸き起こしてくれもしたしね。
ぼちぼち、忘れる前に書いてはいくつもり。
受験が終わってから、まだそのぼんやりの余韻を体の半分? いや4分の1ほどに残し、あとの残りすべてで次年度の準備をしている。気分的にも作業量的にも結構、この時期は大変なのだ。大きな仕事をひとつ終えて、それがきちんとした終わりや安堵や休息を得ることもなく次へと続くというのはあまり精神衛生上よろしくないと思うんだが、世間の仕事ってたいがいそうなのかしら。
ここ数日、自分から積極的に手を抜くようにしてる。抜いても、やらならない仕事、作っておかないとならないプリント・書類・レポートなんかの量はフィジカルに変わらないから、結局は気分的なところだけ。あ、それから、決められている出勤時間に入るとか。だいたいが勤務時間の2時間も3時間も前に入って仕事をしてしまうクチなので、時間10分前に入室なんて習慣として出来ないんだよ。それを意図的にする。
昨日はそれで午前中に早起きして朝から上映の映画を。観てから教室に飛んで入り、そこから作業、新しく入った人の研修。夜には、あまり愉快ではないレポートを一本上げる。
観たのは『茶々 天涯の貴妃』。もとより自分の守備範囲にある作品じゃないんだが。
主人公は豊臣秀吉の世継ぎを産んだ淀君。その淀君と二人の妹の三姉妹が、戦乱の時代の男たちに翻弄されながらも毅然と生きていく姿をいかにも伝統的な時代劇として描いていく。美術や、キャスティングでなかなかチャレンジしているのだが、フォーマットは長い蓄積に基づく安定感のある映画なので、安心して観ていられた。東映のあの△のマークが荒波の前にドーンと浮かぶのを劇場で観たのって何年ぶりだろう。『バトルロワイヤル』もDVDで観たしな。
映画眼に信頼のおける知人が昨年のベスト1だといっていたので観る気になった。そうでなければ観てない。観てよかったよ。
僕は個人的には、世間の評価やイメージと違い、織田信長よりも秀吉の方が血に飢えた狂人だと思っている。信長は松方弘樹、秀吉は渡部篤郎。よかった。
昨年、観たいといいながら結局観逃し、あとで観た人から話を聞いて口惜しい思いをさせられたことが何度かあって、今年はその反省を出来る限り活かそうと思っている。『キサラギ』とかね。
年が明けて一作目が『椿三十郎』、次に『魍魎の匣』を観て、…なんかいまひとつだな、…と思いつつ、払拭してくれと願うような気持ちで『茶々』を。ここ数日の間には『ヒトラーの贋札』を観るつもり。
blogだけでなく、ここ数年、毎月小説をupするというサイトを続けていたのだが、先月、それを落としてしまった。本当に、サラリと。ずっと書き続けていたのに。
書く、というチャンネルが自分のなかで違う入り方をするようになってしまっている、と先日の記事でも書いた(と思う)が、いずれにしろ積極性みたいなもの? あるいはエンジンの掛け方を見失っていたというのは正直なところ。
ただし、日常のすべてにおいてそうなのか、情熱を失っているのかというとそうでもなく、仕事も恋愛もお買い物も楽しくやっている。「書く」というアクセルの踏み方を忘れていた感じ。
実は昨日の夜、それを思い出させてくれる出来事があった。
先に書いた、あまり愉快ではないレポートがそれで、始末書ではないが、まあそれに近いある種類の不振の分析を上司に文書で上げなければならなかったのだ。なにより、それが不振であるという判断が、われわれ現場と上との間でズレがあり(その判断の根拠がスレる)納得はいかないままに、自分では不振だと認められないままに、その分析をしなければならなかった。そのレポートが、上手く書けたのだ。
内容について納得したのではなく、こちらの言い分と上の希望と先の展望とを限られた枚数にきちんと収め、なおかつ無駄のないレポートになった。それで元気が出た、というか、自分の書く文章への偏愛に気づかされ、書くっていいな、とかオレの文章ってやっぱりよいね、と思った次第。ああ、…だよな、まったく。内容も、その文書の今後の扱いも、少しも楽しいことはなく、いやむしろ次の会議でそれらの提出された文書を巡って場合によってはかなりの不愉快で大変な出来事の発生が想定されているというのに、私人としての自分がそれで救われちゃうなんてな。不条理だ。
そんなこともあって、今朝方がじきに上がってくる同人誌の2号へ添付するオマケ? あとがきめいた文章をもつらつらと書き、そのイキオイでもしかするとblogも書けるかも、とこうして書いている次第。
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