理想の自分というのがあるんだが、それはどんな形をしていたんだっけな。
以前は、年末になると翌年の新たなテーマが降るように頭の中に浮かんで来たっけ。去年はなんかそれがないままだった気が。今年も、ないよ。そういったひらめきに似た感覚が薄れてしまっているのは、僕の人生も方向を示すカードなしで前に進めるレールに乗っちゃったということなんだろうか。
フィジカルな課題はいっぱい? いくつかある。仕事のことが多いんだけれど。
プライヴェートで挑戦したいこと? …いい小説を書きたいと、今年は思っている。昨年は、同人誌をちゃんと出す、あるいは軌道に乗せるだったから、それについてはちゃんと前に進んで、進むという保証もココロのなかで得て、してるんだろう。
元旦には必ず、いい小説を書きたい、と願っていたんだ。数年前まで。
初詣でそうお願いする習慣だった。意図していたわけではなく、手を合わすとすっと浮かんでくるのがそれで。素敵な小説が書けますように、素敵な出会いがありますように、という二つをもう十数年願い続けていた、と今年手を合わせながら思い出していた。もちろん、素敵な出会いというのは女性のことばかりではなくって。小説やモノを創るということだけが生活や思考や哲学の中心にずっとあって、そういったライバルだったりファンだったり仲間? だったりとの出会いが頻繁にあった時期があるんだ。それで前に進みスキルの上達を感じ自分(の作品)の変化を感じ取りつつ過ごしていた毎日が。
いつの間にかそうではなくなってた。
仕事を一義的に考えちゃうのは確かだ。そのおかげでスミスのネクタイもハムネットのコートもデュモンクスの鞄も買える。部屋で飲みたいリキュールも飲めるし、店でシングルモルトをロックで飲むことも出来る。
とんでもないプレッシャーが背中から圧し掛かっても来るし、ひどく孤独な気分と向き合わねばならないし、裏切られることも(たまに。これまでいた会社と比較すれば桁違いに少ない。いいところだ)あるが、生徒や生徒のパパやママが何度となく僕を救ってくれてもいる。上司や仲間にもそれなりに恵まれている(先に書いた孤独、というのはそういう繋がりと別のところで、内面にむかった尖った形で存在する)。
依存しているわけでも、何かに組み込まれて何かを見失っているわけでもない。概ねのところ、僕はこの仕事に向いていると思う。それは誰よりも。誰よりも教務に自信があるからそう思うんだが。
国語を教えている自分も自分だが、小説を書いている自分も間違いなく自分なんだよね。
さて、理想の自分ってどんな輪郭だったっけ?
12月の31日、荷物を抱えてこの年最後の授業に向かう。なかなか手ごわい問題を扱い、それで仕事納め。そのまま実家に帰る。
遣り残したことがあるな、とぼんやり思う。どうでもいいといえばいい個人的なことなんだけど、このblogの30日の記事をリライトしたいと思ってたんだ。まとまりのない文章で堅いし尖ってるしで、二日分に分割してもっとなめらかな文にしたいと。
それが出来ないまま部屋を出て、年を越えることになてしまった。
実家のある街へむかう電車に乗る前に、吉井和哉自伝『失われた愛をもとめて』を購入。今年最後の買い物がそれで、何とはなしに示唆を感じる。感じるつもりになる。
そこで忘れ物を思い出す。それもどうでもいいことといえばいいことなんだけど。
買おうと思っていたアルバムが2枚あった。一枚は秋に出たラルクの新譜で、もう一枚は9月にリリースされた吉井のアルバム。それを買ってなかった。CD自体まったく買わなくなってしまった。それが妙に、忘れている、というか遣り残しているもの、として気になり始めた。
うむむ。
忘れていた07年も自分は自分だし、ここに来てそれを「やり残しているぞ」と思う自分も自分なんだよな。
何かを取り返しつつあるんだろうか。
小説を一義的に考え、ポップスに詳しくって、実は刹那的なロックに憧れている自分というものが、以前は確かにあった。ぐるりと巡ってそこに戻ろうとしているのかしら、とふと思う。
家庭というものを獲得し、それをきちんと自分で把握出来ないまま気づかないうちに大人になっていた自分がいて、それが一旦壊れてしまった。07年はそういう意味で喪失の年であり、でもそれをただ失った、とするのは誤りだと思いたいし、先日にも書いたように確実に手に入ったものもあるし。それで何かを取り返そうともしているようだし。
08は原点に回帰する年になるんだろうか? 野心的でギラギギラしていた自分というのも、なかなか悪くなかったようには思うんだ。まあ、実際には不惑目前の筈なんだが。
以前は、年末になると翌年の新たなテーマが降るように頭の中に浮かんで来たっけ。去年はなんかそれがないままだった気が。今年も、ないよ。そういったひらめきに似た感覚が薄れてしまっているのは、僕の人生も方向を示すカードなしで前に進めるレールに乗っちゃったということなんだろうか。
フィジカルな課題はいっぱい? いくつかある。仕事のことが多いんだけれど。
プライヴェートで挑戦したいこと? …いい小説を書きたいと、今年は思っている。昨年は、同人誌をちゃんと出す、あるいは軌道に乗せるだったから、それについてはちゃんと前に進んで、進むという保証もココロのなかで得て、してるんだろう。
元旦には必ず、いい小説を書きたい、と願っていたんだ。数年前まで。
初詣でそうお願いする習慣だった。意図していたわけではなく、手を合わすとすっと浮かんでくるのがそれで。素敵な小説が書けますように、素敵な出会いがありますように、という二つをもう十数年願い続けていた、と今年手を合わせながら思い出していた。もちろん、素敵な出会いというのは女性のことばかりではなくって。小説やモノを創るということだけが生活や思考や哲学の中心にずっとあって、そういったライバルだったりファンだったり仲間? だったりとの出会いが頻繁にあった時期があるんだ。それで前に進みスキルの上達を感じ自分(の作品)の変化を感じ取りつつ過ごしていた毎日が。
いつの間にかそうではなくなってた。
仕事を一義的に考えちゃうのは確かだ。そのおかげでスミスのネクタイもハムネットのコートもデュモンクスの鞄も買える。部屋で飲みたいリキュールも飲めるし、店でシングルモルトをロックで飲むことも出来る。
とんでもないプレッシャーが背中から圧し掛かっても来るし、ひどく孤独な気分と向き合わねばならないし、裏切られることも(たまに。これまでいた会社と比較すれば桁違いに少ない。いいところだ)あるが、生徒や生徒のパパやママが何度となく僕を救ってくれてもいる。上司や仲間にもそれなりに恵まれている(先に書いた孤独、というのはそういう繋がりと別のところで、内面にむかった尖った形で存在する)。
依存しているわけでも、何かに組み込まれて何かを見失っているわけでもない。概ねのところ、僕はこの仕事に向いていると思う。それは誰よりも。誰よりも教務に自信があるからそう思うんだが。
国語を教えている自分も自分だが、小説を書いている自分も間違いなく自分なんだよね。
さて、理想の自分ってどんな輪郭だったっけ?
12月の31日、荷物を抱えてこの年最後の授業に向かう。なかなか手ごわい問題を扱い、それで仕事納め。そのまま実家に帰る。
遣り残したことがあるな、とぼんやり思う。どうでもいいといえばいい個人的なことなんだけど、このblogの30日の記事をリライトしたいと思ってたんだ。まとまりのない文章で堅いし尖ってるしで、二日分に分割してもっとなめらかな文にしたいと。
それが出来ないまま部屋を出て、年を越えることになてしまった。
実家のある街へむかう電車に乗る前に、吉井和哉自伝『失われた愛をもとめて』を購入。今年最後の買い物がそれで、何とはなしに示唆を感じる。感じるつもりになる。
そこで忘れ物を思い出す。それもどうでもいいことといえばいいことなんだけど。
買おうと思っていたアルバムが2枚あった。一枚は秋に出たラルクの新譜で、もう一枚は9月にリリースされた吉井のアルバム。それを買ってなかった。CD自体まったく買わなくなってしまった。それが妙に、忘れている、というか遣り残しているもの、として気になり始めた。
うむむ。
忘れていた07年も自分は自分だし、ここに来てそれを「やり残しているぞ」と思う自分も自分なんだよな。
何かを取り返しつつあるんだろうか。
小説を一義的に考え、ポップスに詳しくって、実は刹那的なロックに憧れている自分というものが、以前は確かにあった。ぐるりと巡ってそこに戻ろうとしているのかしら、とふと思う。
家庭というものを獲得し、それをきちんと自分で把握出来ないまま気づかないうちに大人になっていた自分がいて、それが一旦壊れてしまった。07年はそういう意味で喪失の年であり、でもそれをただ失った、とするのは誤りだと思いたいし、先日にも書いたように確実に手に入ったものもあるし。それで何かを取り返そうともしているようだし。
08は原点に回帰する年になるんだろうか? 野心的でギラギギラしていた自分というのも、なかなか悪くなかったようには思うんだ。まあ、実際には不惑目前の筈なんだが。
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