ここ最近インプットがいまひとつ冴えない、…ということが日常の精神的なコンディションに大きく影響しているんだろうか?
映画。かなりの期待を込めて観た『インヴェージョン』がハズレだった。監督もよい(オリヴァー・ヒルシュビーゲル、『es』『ヒトラー最期の12日間』)、出ている役者も二人とも好き(ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ)、くわえて原作も中学生のときだっけ、読んだ。面白かった(ジャック・フィニィ)。なのに出来上がったものは、…。なんかじわじわと面白くなさが胸のなかで増してくる、ひどい映画だ。
僕の寸評としては、かつてタランティーノやロドリゲスがそうであったように、それまでハリウッド外の自主制作や海外の映画業界で成功を収めてきた監督が、ハリウッドに来てまだそこのルールやノウハウが判らず、たとえばお金の使い方や、いかにもハリウッドな物語展開に持ち味を発揮することが出来ずに、もどかしくも敗北したという印象。
この話を映画にくわしい友人Oにしたところ、「どれだけいい監督や役者が揃っても、映画に必要なのは1に物語、2に物語で3に物語なんだよ」だっけ? と答えた。脚本が不味い、というのだ。なるほど。
小説は先月末にひさびさ綾辻行人の『殺人方程式』を読み返した。初読は、刊行されてすぐ読んだ筈だから89年。当時の僕は熱狂的な新本格フリークだった。おお、20年近くも前の作品になるのか。
当時はそのトリックの巧さに脱帽、絶妙だ! と思ったが、今回読み返してみると、トリックという骨以外に何もない作品だった。小説としての肉が薄い、というかない。これは小説ではなく、問題でありパズルだ、というなかなか酷い印象。
引き続き何かを求めるように、これはもう3年も放ったらかしにしていた『暗黒館の殺人』を読み始めた。これ、出てすぐ古本屋で上巻を買い、読まないでそのままにしていたのだ。最近になって友人が下巻を持っていることを知ったのもひとつのきっかけ。
これは『殺人方程式』と反対の意味でひどい。
京極夏彦を手放しで好きだと思えないのは、彼の作品がまどろっこしい? 作者の「さあ、ここは盛り上がるところですよ」というもって行き方が鼻につく、少し下がって見るとなんとも独善的な盛り上がりをするからなんだが、『暗黒館』はそれをさらにひどくした印象で、出てくる人物がみな稚拙。揮い少女マンガから切り取ってきて貼り付けたような人物ばかりだ。もちろん、巧者であるからしてちゃんとひっくり返してはくれるんだろうが、この厚さには耐えきれない、…でギブアップしてしまった。
ただそのレトロで衒学的な雰囲気はいいな、と思った。綾辻の狙いも多分、そうだろう、としか途中まで読んだだけだから断定はしにくいが、判る。
それで原典に回帰して、江戸川乱歩を読む。
押入れに仕舞いこんでいたなかから『蜘蛛男』を引っ張り出し、読み終えると本屋で『パノラマ島奇談』を買った。『一寸法師』も読んだ。小学生の頃に読んだのとはもちろん違う、それは知っている。大学の頃だっけ、また何度目かのブームが来てその頃にも読んだ。そのときも気づかなかった、あるいは気づいても忘れていた発見、見逃していた乱歩の魅力を発見することもあった。
面白い。でもワンパターンのそしりはまぬがれないだろうな。
『蜘蛛男』なんてミステリーとしての構成はまったくないし、悪漢の美学もないし、ただ悪いヤツが意味もなく美女を付け狙い、犯して殺しバラバラにする、それを不意に現れた探偵が思わせぶりに解決するという、なんとも酷い小説だぞ、これ。
乱歩が僕の本好きへの、遍路へのスタート地点であったことは変わらない。あのとき読んでいなければ、ブキッシュな人生を送っていなかったかも知れない。
その扉の前まで連れて行ってくれたのは父親で、僕は長い間ファザコンも自認していたのだが、最近になってその父親に幻滅も感じ、ようやく不惑目前でその呪縛から逃れようとしているときに、こうして原点である乱歩を読んだ、というのは何かの奇妙な符号なんだろうか?
しかし、映画も本の冴えない。
何か気分が晴れるようなものってないのかしら。せめて映画と本くらい。
映画。かなりの期待を込めて観た『インヴェージョン』がハズレだった。監督もよい(オリヴァー・ヒルシュビーゲル、『es』『ヒトラー最期の12日間』)、出ている役者も二人とも好き(ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ)、くわえて原作も中学生のときだっけ、読んだ。面白かった(ジャック・フィニィ)。なのに出来上がったものは、…。なんかじわじわと面白くなさが胸のなかで増してくる、ひどい映画だ。
僕の寸評としては、かつてタランティーノやロドリゲスがそうであったように、それまでハリウッド外の自主制作や海外の映画業界で成功を収めてきた監督が、ハリウッドに来てまだそこのルールやノウハウが判らず、たとえばお金の使い方や、いかにもハリウッドな物語展開に持ち味を発揮することが出来ずに、もどかしくも敗北したという印象。
この話を映画にくわしい友人Oにしたところ、「どれだけいい監督や役者が揃っても、映画に必要なのは1に物語、2に物語で3に物語なんだよ」だっけ? と答えた。脚本が不味い、というのだ。なるほど。
小説は先月末にひさびさ綾辻行人の『殺人方程式』を読み返した。初読は、刊行されてすぐ読んだ筈だから89年。当時の僕は熱狂的な新本格フリークだった。おお、20年近くも前の作品になるのか。
当時はそのトリックの巧さに脱帽、絶妙だ! と思ったが、今回読み返してみると、トリックという骨以外に何もない作品だった。小説としての肉が薄い、というかない。これは小説ではなく、問題でありパズルだ、というなかなか酷い印象。
引き続き何かを求めるように、これはもう3年も放ったらかしにしていた『暗黒館の殺人』を読み始めた。これ、出てすぐ古本屋で上巻を買い、読まないでそのままにしていたのだ。最近になって友人が下巻を持っていることを知ったのもひとつのきっかけ。
これは『殺人方程式』と反対の意味でひどい。
京極夏彦を手放しで好きだと思えないのは、彼の作品がまどろっこしい? 作者の「さあ、ここは盛り上がるところですよ」というもって行き方が鼻につく、少し下がって見るとなんとも独善的な盛り上がりをするからなんだが、『暗黒館』はそれをさらにひどくした印象で、出てくる人物がみな稚拙。揮い少女マンガから切り取ってきて貼り付けたような人物ばかりだ。もちろん、巧者であるからしてちゃんとひっくり返してはくれるんだろうが、この厚さには耐えきれない、…でギブアップしてしまった。
ただそのレトロで衒学的な雰囲気はいいな、と思った。綾辻の狙いも多分、そうだろう、としか途中まで読んだだけだから断定はしにくいが、判る。
それで原典に回帰して、江戸川乱歩を読む。
押入れに仕舞いこんでいたなかから『蜘蛛男』を引っ張り出し、読み終えると本屋で『パノラマ島奇談』を買った。『一寸法師』も読んだ。小学生の頃に読んだのとはもちろん違う、それは知っている。大学の頃だっけ、また何度目かのブームが来てその頃にも読んだ。そのときも気づかなかった、あるいは気づいても忘れていた発見、見逃していた乱歩の魅力を発見することもあった。
面白い。でもワンパターンのそしりはまぬがれないだろうな。
『蜘蛛男』なんてミステリーとしての構成はまったくないし、悪漢の美学もないし、ただ悪いヤツが意味もなく美女を付け狙い、犯して殺しバラバラにする、それを不意に現れた探偵が思わせぶりに解決するという、なんとも酷い小説だぞ、これ。
乱歩が僕の本好きへの、遍路へのスタート地点であったことは変わらない。あのとき読んでいなければ、ブキッシュな人生を送っていなかったかも知れない。
その扉の前まで連れて行ってくれたのは父親で、僕は長い間ファザコンも自認していたのだが、最近になってその父親に幻滅も感じ、ようやく不惑目前でその呪縛から逃れようとしているときに、こうして原点である乱歩を読んだ、というのは何かの奇妙な符号なんだろうか?
しかし、映画も本の冴えない。
何か気分が晴れるようなものってないのかしら。せめて映画と本くらい。
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