映画は好きだがミュージカル映画となるとどうだろう。なんか莫迦ばかしいとは思うのだ。なんで突然、歌い出んだ、理解に苦しむ、…とずっと思っていたのだが。
しかし、『ムーラン・ルージュ』を観たときにはそのセツナサにもカッコよさにも身を焦がした。
これはTVで観たのだけれど『コーラスライン』も素晴らしいと思ったし、『サウンド・オブ・ミュージック』にだってちゃんと感動した。『シカゴ』は好きではないが、それはあのフェミニンなところ(女性上位のところ)が趣味ではないだけであって、ミュージカルだから好まないというわけではないものな。
結局のところ、映画であれば、そのジャンル分けは関係ないのだ。面白ければいい。共感出来ればいいのであって、それは僕のセンスとその作品が合うかどうかだけなんだろう。
38歳になったその日、休日だった幸運もあって映画を観に行くことにした。
今年、夏まではかなりハイペースで観劇していたのだけれど、夏ですっかりパワーダウンしていた。恋人との都合も大きいのかも。基本的に映画はひとりで観るものだ、といまでも思ってはいるけれども、今年はデートの一環としていく習慣になぜかしらなっている。恋人とは、無理なくスムースに「行こうか」と行ける関係になってるんだよな、…という話はさておき、最近はめっきり、二人で行こうかと劇場に足を運ぶ回数が少なくなっていた。
『ヘアスプレー』の予告は『さらば、ベルリン』を観にいったときにかかっていた。飛びつきはしなかった。なんだか楽しそうな映画だな、という程度の印象。ジョン・トラボルタはどこに出てるんだ? とは思った、もちろん、…。先に書いたようにミュージカル好きではまったくないので、そのときは行こうと思わなかった。
公開してすぐに観に行った友達がいて、こう教えてくれたのだ。
「結構、社会派なの」
それでスイッチが入ったかな。
あの脳天気な予告で社会派? がぜん、気乗りしたのはそれから。一体、どんな? と思い観に行った。
『ヘアスプレー』はこれ以上なく、社会派の映画だった。
扱われているのは黒人差別。
始まってすぐ、ヒロイン・トレーシーが延々歌い続けるオープニング。合間合間に彼女の天然ぶりを示すエピソードが入るのだが、そのオープニング曲の底抜けの快活さと、そのベタな展開にかなり力業で引きずり込まれた。この映画、スゴいかも。とこのときちょっと思った。
ポジティヴぶりが尋常ではないのだ。
作りはとても判りやすい。いいものはいいものの顔をし、悪いヤツは悪いヤツの顔をしている。
保守的なママと、天然で前向きであることだけが取り柄みたいな主人公にバランスよく配置された親友、その親友で敬虔なカソリック教徒であるより保守的なママと、…書きあがればキリがない、すべての人物がその与えられたキャラクターに相応しい、歯車のように狂いなく役割を果たすように作られている。その点、物足りないがこの映画はそういった点をいちいち批判させない種類の映画だ。
(おっと、トレーシーには天然で前向き、以外の取り柄が、それが最大の魅力なんだがある。それはバツグンに歌とダンスが上手いこと。ダンスに関しては貪欲であること。後述)
トレーシーの魅力はダンスに関して貪欲なことだ。
黒人差別の嵐が吹き荒れ、TVでも黒人の見る日は別の企画、ダンスフロアでも白人と黒人の踊るフロアは分けられている。いや、学校の授業でさえ、居残りといえば黒人だけで授業が行われている。そういった潜在的差別が誰もの間に根付いているなかで、トレーシーが垣根を壊していくのは、シーウィードのダンスに魅了されたからだ。彼女は「黒人のである彼」にではなく、ただ「ダンスが上手い彼」に魅了され、そしてそのコミットが、親友ベニーやトレーシーの憧れの彼リンクをも動かしていく。
男前のリンクはその顔に似合わずとてもいい男の子で、彼はトレーシーに恋をし(この点だけはなぜか納得がいかない。トレーシーの性格もダンスも魅力的だが、彼女は結局のところは“あつかましいデブ”でもある)。けれども、黒人反対運動をやろうとする彼女には、自分の将来のことを考えついていけない、と告げ、そして葛藤する。ウルトラ男前であることを除けば、彼は極めてこの映画のなかで常識人として観客の視点に近い位置にいる。
トレーシーの父親はクリストファー・ウォーケン、そして母親が特殊メイクでフリークスもかくやという、奇妙なバランスの巨人女とされたジョン・トラボルタだった。トレーシーのママを女装した男優が演じるというのは、この映画のオリジナル映画、舞台よりずっと踏襲されている伝統らしい(そしてオリジナル映画はあのデヴァインだった、…この映画のタイトル、そういえば聞いたことあったな。カルト映画の一作としてだが)。
トラボルタがママであることのスゴさは、でも最近の観客は知らないのではないかしら。彼はかつて77年に、『サタデーナイト・フィーバー』という映画でディスコブームを世界中に巻き起こした張本人である。『パルプ・フィクション』で復活するまで、『グリース』とこの『サタデー』しかないような、ダンスアクターだった。そのトラボルタが、ママの性格づけとされている“巨人であることを劣等感として、本当は踊りが好きなのだが拒み続けて長い間引きこもっている”という設定で登場するのだ。その過去を知っているこちらとしては、ママがママではなくトラボルタ、一時の、復活する前のトラボルタに見えて、彼が踊りだすそのときには重なるものがあってグッと泣けちゃうんだよな。そのとき、ずっと奇怪だった作られた巨人女の印象は吹き飛ぶ。しかもそのあと、トラボルタはウォーケンに導かれ優しくダンスする場面があるのだが、その微笑ましいことといったら! ウォーケンの男前ぶり、とぼけた紳士ぶりと、トラボルタママのうれしそうな顔が本当に観るものを優しい気分にさせるのだ。
あまり書いているとキリがないが、こうしているだけでも、次々と素敵なシーンが思い浮かんでくる。それは先に書いた通り、わかりやすい、という欠点を持つが、それでいいのだ。これが観たかったのだ、と思えるシーンの連続なのだ。
ぜひ書いておかねばならない、と思ったのは、彼らの世界の中心にあるダンス番組。地方局にのローカル番組なのだが、その司会を務めるコニー・コリンズについて。
そのダンス番組は名前を『コニー・コリンズ・ショー』という。洒脱でスマート、ウィットにも富み、とてもカッコいい大人の男であるコニーが、この世界のなかでの本当の意味の救世主だ。
彼は、それだけのルックスと人気と責任を持ちながら、部長である差別主義者のベルマに抵抗し、黒人を支持する。その根底に流れている哲学は判らない。ダンスを愛しているのは間違いないと思うが、それだけで黒人を支持しているというわけでもなさそうだ。彼は何度か、「そういう時代が来ているんだ」といった旨の発言をする。時代に敏感だったのだが、それだけで彼ほどの地位をもつ人間がとる行動とは思えない、向こう見ず(で、しかし粋な)決断を彼は何度も採る。
判りやすい人物たちのなかで、いちばん作られたイメージが濃い筈のTVスターが、いちばん難解で危険な行動を選択するというのがずっと気になっていた。現実にこの時代に、モデルになったTVスターがいたのかも知れない。ブラウン管のなかでは明るく陽気に振舞い、自分より少し年下の若者たちにこれ以上なく素敵な先達として、ちょっとした不良になること、快楽を得ることの正しさなんかを扇動しているようなコニーが、しかしとても正常で良心的で勇気をもっていることに、観ている間ずっとノックアウトされていた。
しかし、『ムーラン・ルージュ』を観たときにはそのセツナサにもカッコよさにも身を焦がした。
これはTVで観たのだけれど『コーラスライン』も素晴らしいと思ったし、『サウンド・オブ・ミュージック』にだってちゃんと感動した。『シカゴ』は好きではないが、それはあのフェミニンなところ(女性上位のところ)が趣味ではないだけであって、ミュージカルだから好まないというわけではないものな。
結局のところ、映画であれば、そのジャンル分けは関係ないのだ。面白ければいい。共感出来ればいいのであって、それは僕のセンスとその作品が合うかどうかだけなんだろう。
38歳になったその日、休日だった幸運もあって映画を観に行くことにした。
今年、夏まではかなりハイペースで観劇していたのだけれど、夏ですっかりパワーダウンしていた。恋人との都合も大きいのかも。基本的に映画はひとりで観るものだ、といまでも思ってはいるけれども、今年はデートの一環としていく習慣になぜかしらなっている。恋人とは、無理なくスムースに「行こうか」と行ける関係になってるんだよな、…という話はさておき、最近はめっきり、二人で行こうかと劇場に足を運ぶ回数が少なくなっていた。
『ヘアスプレー』の予告は『さらば、ベルリン』を観にいったときにかかっていた。飛びつきはしなかった。なんだか楽しそうな映画だな、という程度の印象。ジョン・トラボルタはどこに出てるんだ? とは思った、もちろん、…。先に書いたようにミュージカル好きではまったくないので、そのときは行こうと思わなかった。
公開してすぐに観に行った友達がいて、こう教えてくれたのだ。
「結構、社会派なの」
それでスイッチが入ったかな。
あの脳天気な予告で社会派? がぜん、気乗りしたのはそれから。一体、どんな? と思い観に行った。
『ヘアスプレー』はこれ以上なく、社会派の映画だった。
扱われているのは黒人差別。
始まってすぐ、ヒロイン・トレーシーが延々歌い続けるオープニング。合間合間に彼女の天然ぶりを示すエピソードが入るのだが、そのオープニング曲の底抜けの快活さと、そのベタな展開にかなり力業で引きずり込まれた。この映画、スゴいかも。とこのときちょっと思った。
ポジティヴぶりが尋常ではないのだ。
作りはとても判りやすい。いいものはいいものの顔をし、悪いヤツは悪いヤツの顔をしている。
保守的なママと、天然で前向きであることだけが取り柄みたいな主人公にバランスよく配置された親友、その親友で敬虔なカソリック教徒であるより保守的なママと、…書きあがればキリがない、すべての人物がその与えられたキャラクターに相応しい、歯車のように狂いなく役割を果たすように作られている。その点、物足りないがこの映画はそういった点をいちいち批判させない種類の映画だ。
(おっと、トレーシーには天然で前向き、以外の取り柄が、それが最大の魅力なんだがある。それはバツグンに歌とダンスが上手いこと。ダンスに関しては貪欲であること。後述)
トレーシーの魅力はダンスに関して貪欲なことだ。
黒人差別の嵐が吹き荒れ、TVでも黒人の見る日は別の企画、ダンスフロアでも白人と黒人の踊るフロアは分けられている。いや、学校の授業でさえ、居残りといえば黒人だけで授業が行われている。そういった潜在的差別が誰もの間に根付いているなかで、トレーシーが垣根を壊していくのは、シーウィードのダンスに魅了されたからだ。彼女は「黒人のである彼」にではなく、ただ「ダンスが上手い彼」に魅了され、そしてそのコミットが、親友ベニーやトレーシーの憧れの彼リンクをも動かしていく。
男前のリンクはその顔に似合わずとてもいい男の子で、彼はトレーシーに恋をし(この点だけはなぜか納得がいかない。トレーシーの性格もダンスも魅力的だが、彼女は結局のところは“あつかましいデブ”でもある)。けれども、黒人反対運動をやろうとする彼女には、自分の将来のことを考えついていけない、と告げ、そして葛藤する。ウルトラ男前であることを除けば、彼は極めてこの映画のなかで常識人として観客の視点に近い位置にいる。
トレーシーの父親はクリストファー・ウォーケン、そして母親が特殊メイクでフリークスもかくやという、奇妙なバランスの巨人女とされたジョン・トラボルタだった。トレーシーのママを女装した男優が演じるというのは、この映画のオリジナル映画、舞台よりずっと踏襲されている伝統らしい(そしてオリジナル映画はあのデヴァインだった、…この映画のタイトル、そういえば聞いたことあったな。カルト映画の一作としてだが)。
トラボルタがママであることのスゴさは、でも最近の観客は知らないのではないかしら。彼はかつて77年に、『サタデーナイト・フィーバー』という映画でディスコブームを世界中に巻き起こした張本人である。『パルプ・フィクション』で復活するまで、『グリース』とこの『サタデー』しかないような、ダンスアクターだった。そのトラボルタが、ママの性格づけとされている“巨人であることを劣等感として、本当は踊りが好きなのだが拒み続けて長い間引きこもっている”という設定で登場するのだ。その過去を知っているこちらとしては、ママがママではなくトラボルタ、一時の、復活する前のトラボルタに見えて、彼が踊りだすそのときには重なるものがあってグッと泣けちゃうんだよな。そのとき、ずっと奇怪だった作られた巨人女の印象は吹き飛ぶ。しかもそのあと、トラボルタはウォーケンに導かれ優しくダンスする場面があるのだが、その微笑ましいことといったら! ウォーケンの男前ぶり、とぼけた紳士ぶりと、トラボルタママのうれしそうな顔が本当に観るものを優しい気分にさせるのだ。
あまり書いているとキリがないが、こうしているだけでも、次々と素敵なシーンが思い浮かんでくる。それは先に書いた通り、わかりやすい、という欠点を持つが、それでいいのだ。これが観たかったのだ、と思えるシーンの連続なのだ。
ぜひ書いておかねばならない、と思ったのは、彼らの世界の中心にあるダンス番組。地方局にのローカル番組なのだが、その司会を務めるコニー・コリンズについて。
そのダンス番組は名前を『コニー・コリンズ・ショー』という。洒脱でスマート、ウィットにも富み、とてもカッコいい大人の男であるコニーが、この世界のなかでの本当の意味の救世主だ。
彼は、それだけのルックスと人気と責任を持ちながら、部長である差別主義者のベルマに抵抗し、黒人を支持する。その根底に流れている哲学は判らない。ダンスを愛しているのは間違いないと思うが、それだけで黒人を支持しているというわけでもなさそうだ。彼は何度か、「そういう時代が来ているんだ」といった旨の発言をする。時代に敏感だったのだが、それだけで彼ほどの地位をもつ人間がとる行動とは思えない、向こう見ず(で、しかし粋な)決断を彼は何度も採る。
判りやすい人物たちのなかで、いちばん作られたイメージが濃い筈のTVスターが、いちばん難解で危険な行動を選択するというのがずっと気になっていた。現実にこの時代に、モデルになったTVスターがいたのかも知れない。ブラウン管のなかでは明るく陽気に振舞い、自分より少し年下の若者たちにこれ以上なく素敵な先達として、ちょっとした不良になること、快楽を得ることの正しさなんかを扇動しているようなコニーが、しかしとても正常で良心的で勇気をもっていることに、観ている間ずっとノックアウトされていた。
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