映画を誰と観たか、ということにこだわってしまう。何年か経てばそんな記憶、曖昧になってしまうものなのにって? まあ、それはそうなんだけどな。
根拠は、観る前の推論に過ぎないといえば過ぎないんだけど、『カポーティ』はその人と一緒に観たかった。小説書きの映画だと思っていたから、ということが大きい。そしてその通りだった。いまの時点では、もしかすると彼女のなかでこの映画はさして重要ではないかも知れない。ただの眠い映画だったかも知れない。
でもきっと、と僕はこう考えるのだ。
彼女と僕の間で、この先何度となく小説についての話が繰り返されるだろう。いまの関係が壊れたとしても、小説についての話はする。多分、きっと。
そのときに、もしかすればこのとき観た1本の映画が、互いの姿勢や書いた作品や書くことの哲学やなんかの手がかりになる日が来るのではないかしら。
まあ、そんなことをぼんやり考えてたってわけだ。
無論、映画を観ようという約束のなかにいつもいつもそんな深意が潜んでいるわけではない。なにより、そんな思い込みとはまったく別で、とんでもなくくだらない失敗作だって可能性もある。リスクを考慮してばかりもいられないのだが。
『カポーティ』を観る前に、谷町6丁目のエクチュアに行こう、と彼女がいった。
谷町6丁目には、そうだ僕がもういまから10年近くも前に、通っていたさる学校がある。そこは文学について何も教えてはくれないが、文学学校、という名前がついている不思議なところだった。そこの発行する新入生募集用の冊子に原稿を書くように依頼されたときにも、僕は「ここは文学を教えてくれる場所ではない」と書いた。
「でも文学探しにつきあってくれる仲間くらいはいるところ」だと。
地下鉄の駅を降りて、僕は彼女をその学校のある雑居ビルに案内した。誘い込んだ。
日曜日、学校は休みだった。ビル全体もひっそりとしていた。重い防火扉が閉まっている。音をたてないように息をひそめて扉を開け、入る。
休日の午後だというのに、街の真ん中だというのに、ひっそりとしていた。
僕らは息を殺して(いったい何に見つかりたくなかったというのだろう。過去?)教室の前に立ち、掲示板を眺め、僕はそこがどんな場所だったかを囁くように彼女に話した。
つごう2年、僕はその学校に通っていた。
1クラスの生徒は20人弱、若い頃からいつか小説を書きたかったのだ、というようなおっちゃんはまだマシな方で、若い女の子目当ての中年も老人もいた。20歳代のある女の子から、後になって「○○さんと寝たことがあります」と秘密を打ち明けられて驚いたこともある。一見、紳士然とした○○さんは60歳を越えていたと思う。恐ろしい世界だ。
若さしかウリのないような女の子もいた。その子らに群がる男の子たちもいた。小説を1、2本書いただけで、自分のことを天才だと思い込めるシアワセな連中だった。酒を飲んで話すのは楽しかった。なかには真剣に文学を嗜んでいる人もいた。
週に1度、教室に集まり、誰かの書いた作品を批評する。とんでもなく長い本格的な骨組をもった作品が俎上にあがることもあれば、どうでもいいようなお茶を濁すためだけに書かれたような日記まがいの駄文を真剣に議論させられるときもある。玉石混淆という言葉が本当に相応しい。
批評もまちまちで、まるで自分の作品のように、「自分だったらこうする」「なんでこうなるのか判らない」としたり顔で激しく論ずるおっさんもいれば、誤字訂ばかり延々語るヤツもいた。
その場所にいるときは、でも楽しかった。スリルを感じさせてくれる人も少なからずいた。指摘のキレのよさに、嫉妬や羨望を感じたことも一度や二度ではない。失望はその10倍くらい味わったが、それはそれで。
知らない女性から「えーっ、あなたが○○くん? ワタシ、あなたの小説のファンなんですぅ」といわれたことも何度かあった。悪い気はしなかった。
楽しい場所だったことは確かだ。その渦中に身を置いていたそのときは。
離れてみると醜悪な場所になった。いろんなことが見えたからかも知れない。
もういい年齢をした、同人誌界で有名な大物作家たちから囲まれ、こきおろされたこともある。
だいたいそういうときは連中は酔いに力を借りて、偉そうな口を叩くのだ。
さる有名(だがこれも同人誌界で。そういう信じられないマイナーリーグのような、しかし伝統的で閉鎖的な世界は確かにあるのだ)な同人誌作家と、僕と、女性の三人で飲んでいた。周囲には他にも多くの学生がいた。その作家は日ごろは温厚で、誰の作品に対しても口当たりのよい批評しかくわえないのだが、彼は酔いの回った赤い顔で、
「△△さん(女性)はどうして彼の(僕のこと)ことを評価するわけ? 下手クソじゃないか」
と僕の目の前でいい放った。女性は苦笑い。批評されるのも非難されるのも構わないのだが、そのとき不快だったのは、彼が僕をダシにして自分の優位をその女性にアッピールしようとしているのがミエミエだったこと。女を口説くのに人の作品をケナすしか材料がないというのはいかがなものか。
「キミの書いてるのは小説じゃあないね」
といわれたことも何度もある。じゃあオレが書いてるのは何なのかいってみろ、と思ったこともあるし、アンタの思う小説じゃないものをもっと書いてやる、グウの音も出せないくらいにな、と毒づいたことももちろんある。あくまでココロの中だけで。
小説を書いていていい想いをいろいろしている。自尊心をくすぐられることは何度もあった。
でもその反対に、信じられないような酷い目にもあっている。いい大人がくだらない見栄や奢りや嫉妬やで恐ろしい仕打ちを他人に行うのも目の当たりにしてきている。晒されたことも何度もある。
小説を書くことをくだらない、と思ったことは一度もないが、小説を書く人のなかに、信じられないほど多くのくだらないヤツがいることを、その2年間で身をもって知った。小説とは、などと偉そうにいいながらも、結局はセックスしたいだけじゃねぇか、というような連中を僕はずいぶん見た。見たくて見たわけじゃないんだが。
そのひっそりとした雑居ビルのなかで、僕はそのことを彼女にいわなかった。いう必要のないことだし、知ったからといって、何かプラスになるような話でもないし。
でも小説を書く、ということはそういうことでもあるのだ、と痛い目に散々あってきた僕はちょっとだけ思っている。もとい、小説を書いて少し世界の外へ踏み出そうとしているなら、そういうこともあるのだと頭の片隅においていてほしいという気持ちもちょこっとだけ、ある。
小説を書くようなヤツは口が上手いからな。チヤホヤするのが上手い、他人の自尊心をくすぐるのが上手い。
そういった有象無象の連中に、僕は囲まれてある期間、過ごしていたのだった。連中にとって女の子は食い物にする対象、自分より若い男はみんな敵。そうとしか思えないような振る舞いを受けるなかで、そうそう、僕は、自分の小説と才能を信じることと磨くこととを知らず知らずのうちに覚えていったのかも知れない。才能だけが武器になる。僕もくだらない人間のひとりかも知れないが、小説だけは誰にも負けない。
根拠は、観る前の推論に過ぎないといえば過ぎないんだけど、『カポーティ』はその人と一緒に観たかった。小説書きの映画だと思っていたから、ということが大きい。そしてその通りだった。いまの時点では、もしかすると彼女のなかでこの映画はさして重要ではないかも知れない。ただの眠い映画だったかも知れない。
でもきっと、と僕はこう考えるのだ。
彼女と僕の間で、この先何度となく小説についての話が繰り返されるだろう。いまの関係が壊れたとしても、小説についての話はする。多分、きっと。
そのときに、もしかすればこのとき観た1本の映画が、互いの姿勢や書いた作品や書くことの哲学やなんかの手がかりになる日が来るのではないかしら。
まあ、そんなことをぼんやり考えてたってわけだ。
無論、映画を観ようという約束のなかにいつもいつもそんな深意が潜んでいるわけではない。なにより、そんな思い込みとはまったく別で、とんでもなくくだらない失敗作だって可能性もある。リスクを考慮してばかりもいられないのだが。
『カポーティ』を観る前に、谷町6丁目のエクチュアに行こう、と彼女がいった。
谷町6丁目には、そうだ僕がもういまから10年近くも前に、通っていたさる学校がある。そこは文学について何も教えてはくれないが、文学学校、という名前がついている不思議なところだった。そこの発行する新入生募集用の冊子に原稿を書くように依頼されたときにも、僕は「ここは文学を教えてくれる場所ではない」と書いた。
「でも文学探しにつきあってくれる仲間くらいはいるところ」だと。
地下鉄の駅を降りて、僕は彼女をその学校のある雑居ビルに案内した。誘い込んだ。
日曜日、学校は休みだった。ビル全体もひっそりとしていた。重い防火扉が閉まっている。音をたてないように息をひそめて扉を開け、入る。
休日の午後だというのに、街の真ん中だというのに、ひっそりとしていた。
僕らは息を殺して(いったい何に見つかりたくなかったというのだろう。過去?)教室の前に立ち、掲示板を眺め、僕はそこがどんな場所だったかを囁くように彼女に話した。
つごう2年、僕はその学校に通っていた。
1クラスの生徒は20人弱、若い頃からいつか小説を書きたかったのだ、というようなおっちゃんはまだマシな方で、若い女の子目当ての中年も老人もいた。20歳代のある女の子から、後になって「○○さんと寝たことがあります」と秘密を打ち明けられて驚いたこともある。一見、紳士然とした○○さんは60歳を越えていたと思う。恐ろしい世界だ。
若さしかウリのないような女の子もいた。その子らに群がる男の子たちもいた。小説を1、2本書いただけで、自分のことを天才だと思い込めるシアワセな連中だった。酒を飲んで話すのは楽しかった。なかには真剣に文学を嗜んでいる人もいた。
週に1度、教室に集まり、誰かの書いた作品を批評する。とんでもなく長い本格的な骨組をもった作品が俎上にあがることもあれば、どうでもいいようなお茶を濁すためだけに書かれたような日記まがいの駄文を真剣に議論させられるときもある。玉石混淆という言葉が本当に相応しい。
批評もまちまちで、まるで自分の作品のように、「自分だったらこうする」「なんでこうなるのか判らない」としたり顔で激しく論ずるおっさんもいれば、誤字訂ばかり延々語るヤツもいた。
その場所にいるときは、でも楽しかった。スリルを感じさせてくれる人も少なからずいた。指摘のキレのよさに、嫉妬や羨望を感じたことも一度や二度ではない。失望はその10倍くらい味わったが、それはそれで。
知らない女性から「えーっ、あなたが○○くん? ワタシ、あなたの小説のファンなんですぅ」といわれたことも何度かあった。悪い気はしなかった。
楽しい場所だったことは確かだ。その渦中に身を置いていたそのときは。
離れてみると醜悪な場所になった。いろんなことが見えたからかも知れない。
もういい年齢をした、同人誌界で有名な大物作家たちから囲まれ、こきおろされたこともある。
だいたいそういうときは連中は酔いに力を借りて、偉そうな口を叩くのだ。
さる有名(だがこれも同人誌界で。そういう信じられないマイナーリーグのような、しかし伝統的で閉鎖的な世界は確かにあるのだ)な同人誌作家と、僕と、女性の三人で飲んでいた。周囲には他にも多くの学生がいた。その作家は日ごろは温厚で、誰の作品に対しても口当たりのよい批評しかくわえないのだが、彼は酔いの回った赤い顔で、
「△△さん(女性)はどうして彼の(僕のこと)ことを評価するわけ? 下手クソじゃないか」
と僕の目の前でいい放った。女性は苦笑い。批評されるのも非難されるのも構わないのだが、そのとき不快だったのは、彼が僕をダシにして自分の優位をその女性にアッピールしようとしているのがミエミエだったこと。女を口説くのに人の作品をケナすしか材料がないというのはいかがなものか。
「キミの書いてるのは小説じゃあないね」
といわれたことも何度もある。じゃあオレが書いてるのは何なのかいってみろ、と思ったこともあるし、アンタの思う小説じゃないものをもっと書いてやる、グウの音も出せないくらいにな、と毒づいたことももちろんある。あくまでココロの中だけで。
小説を書いていていい想いをいろいろしている。自尊心をくすぐられることは何度もあった。
でもその反対に、信じられないような酷い目にもあっている。いい大人がくだらない見栄や奢りや嫉妬やで恐ろしい仕打ちを他人に行うのも目の当たりにしてきている。晒されたことも何度もある。
小説を書くことをくだらない、と思ったことは一度もないが、小説を書く人のなかに、信じられないほど多くのくだらないヤツがいることを、その2年間で身をもって知った。小説とは、などと偉そうにいいながらも、結局はセックスしたいだけじゃねぇか、というような連中を僕はずいぶん見た。見たくて見たわけじゃないんだが。
そのひっそりとした雑居ビルのなかで、僕はそのことを彼女にいわなかった。いう必要のないことだし、知ったからといって、何かプラスになるような話でもないし。
でも小説を書く、ということはそういうことでもあるのだ、と痛い目に散々あってきた僕はちょっとだけ思っている。もとい、小説を書いて少し世界の外へ踏み出そうとしているなら、そういうこともあるのだと頭の片隅においていてほしいという気持ちもちょこっとだけ、ある。
小説を書くようなヤツは口が上手いからな。チヤホヤするのが上手い、他人の自尊心をくすぐるのが上手い。
そういった有象無象の連中に、僕は囲まれてある期間、過ごしていたのだった。連中にとって女の子は食い物にする対象、自分より若い男はみんな敵。そうとしか思えないような振る舞いを受けるなかで、そうそう、僕は、自分の小説と才能を信じることと磨くこととを知らず知らずのうちに覚えていったのかも知れない。才能だけが武器になる。僕もくだらない人間のひとりかも知れないが、小説だけは誰にも負けない。
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