料理は出来る、下手ではないと思う。レパートリーもまあまあだろう。
でもひとつ(ではないかも知れないが、まあ、とにかくひとつ)欠点がある。悠長にしか出来ない。簡単にいえば、時間をかけてしか出来ないということ。
冷蔵庫をぱっと開けて何が残ってるのかをさっと見取り、しゃかしゃかと手際よく切り手際よく炒めて、…までは頑張る。しかし一品じゃあ他人にふるまう・他人をもてなす、とはいかない。そこでもう一品、の“もう一品”が出来ない。それを簡単にやりたい、というのは切なる願いだ。しかし、いまだに出来ない。
1人暮らしも結構長い。家にいる頃から厨房、というと大仰な感じがするな、キッチンに立つのは嫌いではなかった。
本格的に取り組むようになったのは、フリーのライターだった頃。結婚していた。奥サマは仕事に出ている。僕が主夫となり、家事も引き受けてもいい、と思ったのでそうした。週に一度か二度、取材しに行きあとはひたすらそのとき回したテープを起こしていく、暇はあるけれどもお金はないので、TSUTAYAに行き『Xファイル』を借りて来てそれを見るのが1日のルーティンのひとつでもあった。朝方は小説を書き、テープを起こし、昼過ぎにはモルダー&スカリーの活躍を見て、夕方からごそごそとキッチンに立つ。
達成感と無縁の生活で、料理だけがささやかな手応えというものを味わせてくれた。
「よし、今日はハンバーグに挑戦してみよう」
と思って材料を買うところから始める。これも、実は僕が理想とする“料理ぶり”とは異なる。目的(つまり出来上がる料理)ありき、のそれはプロの料理に非ず。買い物に行き、そこで何が安いかを見てゴールを決める。そういった逆算の料理に憧れるのだが、まあ、この時期は修行時代だから。
レシピと電子レンジのマニュアルが主な格闘相手。出来上がりが理想に近いと、やった、と思う。1日のなかでその瞬間だけが、何かの“結果”を手にする時間だった。あれもこれも、この時期に覚えた。
しかしそのどれもがメインの料理だ。
オマケのもう一品が、身につかない。
手料理をいただく機会があった。
その提案が相手からあったとき、本当に感動しちゃったよ。いや、目の当たりにしたときにはさらにひとしおだったのだけれど。
「どれくらいかかったの?」
と訊ねると、相手からはいとも平然といったふうで、いやそんなに、30分くらい? との返答。だってレンジ使ったもの、というけど、あんた、…僕だっていつも使ってるんだが。
品数も十分。そのこともいうと、「いやー、一品作ってる間に別の料理を作って、……云々」。
もう正直におみそれしました。そりゃママも○○○○に○○人は○○だっていうよ。
その、いかにも簡単に、っていう態度がなんとも小癪でカッコよいのだ。しかも味も絶品だった。
料理上手の女の子っていいよな。こちらの負けん気と向上心をくすぐる。
実際やってみると面白い。何より自分の作ったものが他人にこれ以上なくダイレクトに評価されるんだもの。嘘やビギナーズラックの割り込む余地が極端に少ない。
なんとも幸せなことに、僕はひとりを除いてずっと料理上手な女の子にお世話になりっぱなしだ。なかでも記憶に残ってるのは、二人目につきあった彼女で、憎たらしいくらいの達者ぶりだった。お菓子も上手かった。ある夏、もう別れてずいぶん経ってたのだが、その元彼女が僕とその当時つきあっていた女の子の元を訪ねてきたことがある(というのも、その元彼女はなぜか次の次にあたるのか? 僕の何人目かのその彼女のことを尊敬していたフシがある。なんとも奇妙な話なんだけど)。そのとき、夏みかんを一面に敷き詰めた大きなタルトをホールで持参してきたのだ。涼しげな日傘にワンピースという出で立ちで。タルトの入った平べったい箱を手にして。
「スゴいな」とややすかした言い方をした元彼の僕に(正直、僕はその元彼女を扱いかねていた)その二つ年下の彼女は、
「お菓子は美味しく作るのは簡単なの。レシピ通りにやれば誰にだって美味しく出来る。だから見た目を美しく作らないと意味がないんですよぉ」
などと哲学的で鼻につくが、しかし真理を突いているようにも見える小憎らしいことを言い放った。いや、しかしそういうだけのことは確かにあったのだ。
タルトは見事な出来栄えだった。
いまの彼女の料理を最初に披露して貰ったのは、去年の誕生日のとき。
書いてもいいよな。
誕生日デートのその日、逢うなり「ホテル行こ」といわれた。最初は冗談かと思ったらマジだった。えーっ、と思いつつ一緒に部屋に入ると、そこで披露されたのは持参された手料理の数数。誕生日はサプライズだ、と僕以上に思っているらしい彼女の、これも小癪なお祝いだった。感激も喜びもしたけど、なにより、やるな、と思った。
そういう人なのだ。
なので今回も、やっぱり思ったのだ。キミ、やるな、と。
以前に何度か、部屋で料理を披露したことがある。そういうときって洗練を意識する。以前はよく夏場に、同性異性含めてたくさんの友人を部屋に呼び、ひたすらビールを飲んでてもらい、僕がつまみを作り続ける、というようなこともやった。夕方、クーラーよりも開け放した窓から入る風で涼み、TVでサザンのライブなんかを見ながら。あれは一種のストレス解消法だったんだろうな。
彼女に披露したこともあるぞ。いずれの機会も夜遅くだった。ビールなんか飲みながらしゃかしゃかとミズナを切り、フライ粉をまぶした鮭を上げたり、トマトを煮込んだりして。洗練ということをとても意識するんだ。少しはカッコよく出来てたらいいんだけれど。
僕は最初に彼女からふるまわれた料理を、そのときのことを忘れないと思うんだけど、彼女はどうなんだろうな。覚えててくれたらいいのだけれど、出来ればそれが、カッコいい記憶であれば、うれしい。
でもひとつ(ではないかも知れないが、まあ、とにかくひとつ)欠点がある。悠長にしか出来ない。簡単にいえば、時間をかけてしか出来ないということ。
冷蔵庫をぱっと開けて何が残ってるのかをさっと見取り、しゃかしゃかと手際よく切り手際よく炒めて、…までは頑張る。しかし一品じゃあ他人にふるまう・他人をもてなす、とはいかない。そこでもう一品、の“もう一品”が出来ない。それを簡単にやりたい、というのは切なる願いだ。しかし、いまだに出来ない。
1人暮らしも結構長い。家にいる頃から厨房、というと大仰な感じがするな、キッチンに立つのは嫌いではなかった。
本格的に取り組むようになったのは、フリーのライターだった頃。結婚していた。奥サマは仕事に出ている。僕が主夫となり、家事も引き受けてもいい、と思ったのでそうした。週に一度か二度、取材しに行きあとはひたすらそのとき回したテープを起こしていく、暇はあるけれどもお金はないので、TSUTAYAに行き『Xファイル』を借りて来てそれを見るのが1日のルーティンのひとつでもあった。朝方は小説を書き、テープを起こし、昼過ぎにはモルダー&スカリーの活躍を見て、夕方からごそごそとキッチンに立つ。
達成感と無縁の生活で、料理だけがささやかな手応えというものを味わせてくれた。
「よし、今日はハンバーグに挑戦してみよう」
と思って材料を買うところから始める。これも、実は僕が理想とする“料理ぶり”とは異なる。目的(つまり出来上がる料理)ありき、のそれはプロの料理に非ず。買い物に行き、そこで何が安いかを見てゴールを決める。そういった逆算の料理に憧れるのだが、まあ、この時期は修行時代だから。
レシピと電子レンジのマニュアルが主な格闘相手。出来上がりが理想に近いと、やった、と思う。1日のなかでその瞬間だけが、何かの“結果”を手にする時間だった。あれもこれも、この時期に覚えた。
しかしそのどれもがメインの料理だ。
オマケのもう一品が、身につかない。
手料理をいただく機会があった。
その提案が相手からあったとき、本当に感動しちゃったよ。いや、目の当たりにしたときにはさらにひとしおだったのだけれど。
「どれくらいかかったの?」
と訊ねると、相手からはいとも平然といったふうで、いやそんなに、30分くらい? との返答。だってレンジ使ったもの、というけど、あんた、…僕だっていつも使ってるんだが。
品数も十分。そのこともいうと、「いやー、一品作ってる間に別の料理を作って、……云々」。
もう正直におみそれしました。そりゃママも○○○○に○○人は○○だっていうよ。
その、いかにも簡単に、っていう態度がなんとも小癪でカッコよいのだ。しかも味も絶品だった。
料理上手の女の子っていいよな。こちらの負けん気と向上心をくすぐる。
実際やってみると面白い。何より自分の作ったものが他人にこれ以上なくダイレクトに評価されるんだもの。嘘やビギナーズラックの割り込む余地が極端に少ない。
なんとも幸せなことに、僕はひとりを除いてずっと料理上手な女の子にお世話になりっぱなしだ。なかでも記憶に残ってるのは、二人目につきあった彼女で、憎たらしいくらいの達者ぶりだった。お菓子も上手かった。ある夏、もう別れてずいぶん経ってたのだが、その元彼女が僕とその当時つきあっていた女の子の元を訪ねてきたことがある(というのも、その元彼女はなぜか次の次にあたるのか? 僕の何人目かのその彼女のことを尊敬していたフシがある。なんとも奇妙な話なんだけど)。そのとき、夏みかんを一面に敷き詰めた大きなタルトをホールで持参してきたのだ。涼しげな日傘にワンピースという出で立ちで。タルトの入った平べったい箱を手にして。
「スゴいな」とややすかした言い方をした元彼の僕に(正直、僕はその元彼女を扱いかねていた)その二つ年下の彼女は、
「お菓子は美味しく作るのは簡単なの。レシピ通りにやれば誰にだって美味しく出来る。だから見た目を美しく作らないと意味がないんですよぉ」
などと哲学的で鼻につくが、しかし真理を突いているようにも見える小憎らしいことを言い放った。いや、しかしそういうだけのことは確かにあったのだ。
タルトは見事な出来栄えだった。
いまの彼女の料理を最初に披露して貰ったのは、去年の誕生日のとき。
書いてもいいよな。
誕生日デートのその日、逢うなり「ホテル行こ」といわれた。最初は冗談かと思ったらマジだった。えーっ、と思いつつ一緒に部屋に入ると、そこで披露されたのは持参された手料理の数数。誕生日はサプライズだ、と僕以上に思っているらしい彼女の、これも小癪なお祝いだった。感激も喜びもしたけど、なにより、やるな、と思った。
そういう人なのだ。
なので今回も、やっぱり思ったのだ。キミ、やるな、と。
以前に何度か、部屋で料理を披露したことがある。そういうときって洗練を意識する。以前はよく夏場に、同性異性含めてたくさんの友人を部屋に呼び、ひたすらビールを飲んでてもらい、僕がつまみを作り続ける、というようなこともやった。夕方、クーラーよりも開け放した窓から入る風で涼み、TVでサザンのライブなんかを見ながら。あれは一種のストレス解消法だったんだろうな。
彼女に披露したこともあるぞ。いずれの機会も夜遅くだった。ビールなんか飲みながらしゃかしゃかとミズナを切り、フライ粉をまぶした鮭を上げたり、トマトを煮込んだりして。洗練ということをとても意識するんだ。少しはカッコよく出来てたらいいんだけれど。
僕は最初に彼女からふるまわれた料理を、そのときのことを忘れないと思うんだけど、彼女はどうなんだろうな。覚えててくれたらいいのだけれど、出来ればそれが、カッコいい記憶であれば、うれしい。
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