夏に入ってから大沢在昌『灰夜』を、その勢いで『毒猿』を再読。『灰夜』は「新宿鮫」シリーズのなかでも屈指だ、と何人もの人から勧められてたんだけど、確かに。
ミステリーという枠は広義に使われすぎているので、同じミステリー好きだからといって話題や好みの本やが合うとは限らない。京極が好きな人とジム・トンプスンが好きな人とでは接点はないと思うし、綾辻がイケるということは必ずしも高村薫が読めるということを意味しないし。
「新宿鮫」のシリーズは、でも稀有だと思う。どのカテゴリーが好きな人でも、大概は面白いといった。そうだよな、確かに面白い。
(ミステリー好きはとってもコアなので、自分の読める範囲外のものを認めない人が多い。しかもそのジャンルの境界線がとても微妙で、みな一様にウルサイ。困った大人たちだが僕もその1人なんだろう)
(ちなみに、僕は先に挙げた作家たちなら京極以外はいける)
そういった多くのファンを唸らせる最小公倍数的なミステリーってあまりなくって、そうだな、『羊たちの沈黙』とかはそうかも。
「新宿鮫」の基本の設定はハードボイルド、作品ごとに少しずつテイストが異なる。さる理由があって逸脱したキャリアの警部・鮫島が主人公、恋人はロックンローラーの晶。魅力的な脇役が毎回、敵・味方を問わず登場する。
『灰夜』は、第8作になるのか。
(確か、告知は7作目として出てた気がする。途中で『風化水脈』の新聞連載が始まりそちらに専念、先に上梓になったのではないかしら)
少し異質。まず舞台が東京ではない、もうひとつ、人気キャラクターである晶が登場しない、この2点において「『灰夜』は「新宿鮫」じゃないな」というファンが現れても不思議ではないのに、物語がシリーズの基本設定であるさる人物に絡むものなので、これ以上なくレアでソリッドな鮫島警部の活躍が見られる。番外編といった趣なのだが、お馴染みの装飾を削ぎ落とした結果、原点回帰を果たせた、という印象。
面白かった。
警察に勤める人物を主人公にすると、どうしても活躍の幅が縛られる。狭くなるとは思わない。その縛ってくる制約をドラマのなかのジレンマとして持ち込むことに成功する小説がある時期から登場するようになった。骨太なリアリズムの追求の結果だろう。
高村薫の『レディ・ジョーカー』に登場する合田も、その登場作品ごとに折り合いの付け方が異なる。『照柿』では彼は完全に警察という組織を逸脱し、ひとりの人間として許されない行為に踏み込むが、『レディ』ではこれ以上なく警察という組織に馴染み、そのなかで能力も与えられた権限も発揮し、結果、人間らしさを表現することになった。高村薫の筆致はこれが最高だとやはり思う。
その合田のネガのような男が『レディ』には登場する、映画では吉川晃司が演じた半田という刑事(正しくは巡査部長)なのだが、彼の科白に秀逸なものがある。
「警察官という職業自体は合ってると思うが、警察という組織が合わないんだ」
この科白、「新宿鮫」のなかでも誰かがいってたような気がする。僕の勘違いかも知れない。
ミステリーという枠は広義に使われすぎているので、同じミステリー好きだからといって話題や好みの本やが合うとは限らない。京極が好きな人とジム・トンプスンが好きな人とでは接点はないと思うし、綾辻がイケるということは必ずしも高村薫が読めるということを意味しないし。
「新宿鮫」のシリーズは、でも稀有だと思う。どのカテゴリーが好きな人でも、大概は面白いといった。そうだよな、確かに面白い。
(ミステリー好きはとってもコアなので、自分の読める範囲外のものを認めない人が多い。しかもそのジャンルの境界線がとても微妙で、みな一様にウルサイ。困った大人たちだが僕もその1人なんだろう)
(ちなみに、僕は先に挙げた作家たちなら京極以外はいける)
そういった多くのファンを唸らせる最小公倍数的なミステリーってあまりなくって、そうだな、『羊たちの沈黙』とかはそうかも。
「新宿鮫」の基本の設定はハードボイルド、作品ごとに少しずつテイストが異なる。さる理由があって逸脱したキャリアの警部・鮫島が主人公、恋人はロックンローラーの晶。魅力的な脇役が毎回、敵・味方を問わず登場する。
『灰夜』は、第8作になるのか。
(確か、告知は7作目として出てた気がする。途中で『風化水脈』の新聞連載が始まりそちらに専念、先に上梓になったのではないかしら)
少し異質。まず舞台が東京ではない、もうひとつ、人気キャラクターである晶が登場しない、この2点において「『灰夜』は「新宿鮫」じゃないな」というファンが現れても不思議ではないのに、物語がシリーズの基本設定であるさる人物に絡むものなので、これ以上なくレアでソリッドな鮫島警部の活躍が見られる。番外編といった趣なのだが、お馴染みの装飾を削ぎ落とした結果、原点回帰を果たせた、という印象。
面白かった。
警察に勤める人物を主人公にすると、どうしても活躍の幅が縛られる。狭くなるとは思わない。その縛ってくる制約をドラマのなかのジレンマとして持ち込むことに成功する小説がある時期から登場するようになった。骨太なリアリズムの追求の結果だろう。
高村薫の『レディ・ジョーカー』に登場する合田も、その登場作品ごとに折り合いの付け方が異なる。『照柿』では彼は完全に警察という組織を逸脱し、ひとりの人間として許されない行為に踏み込むが、『レディ』ではこれ以上なく警察という組織に馴染み、そのなかで能力も与えられた権限も発揮し、結果、人間らしさを表現することになった。高村薫の筆致はこれが最高だとやはり思う。
その合田のネガのような男が『レディ』には登場する、映画では吉川晃司が演じた半田という刑事(正しくは巡査部長)なのだが、彼の科白に秀逸なものがある。
「警察官という職業自体は合ってると思うが、警察という組織が合わないんだ」
この科白、「新宿鮫」のなかでも誰かがいってたような気がする。僕の勘違いかも知れない。
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夏期講習のスタートが夏の始まり。受け持つ生徒が生徒なので、帰りはいつもより少しだけはやくなるんだけれど、早朝から夕方までずっと教室。信じられないくらい長い時間、同じ生徒とむきあっている。そりゃ生徒との間にテレパシーが通じて来たりもするって。
精神的には隙がない。余裕ではなく、何か別の思考や違うシフトが入ることがない。緊張感があるといえばある、教務だけに専念出来るという意味では講習の時期は好きだ。カッコつけていえば研ぎ澄まされる感じ。
余裕がなくなる私生活を見越していろいろな支度を。
扇子を買ったこともそうだし、シャツを買ったり、夏らしいCDを購入したり。
今日は帰ってから1人でキッチンに入る。カウンターのむこうのリビングの照明を落とし、夜景を見ながら(というとゴージャスな感じがしてよくない?)料理に勤しむ。習慣としてTVは観ないので(阪神戦は観る。帰ってきた頃はちょうどラストイニングで負けてた。消す)CDをかける。
2週間ほどまえにTSUTAYAのカフェで流れていたのだ。
なんか心地よいボサノヴァだなー、でもこの曲って、…。トンプソンツインズの「Hold me now」だった。80年代を代表する超のつく名曲、そのボサノヴァヴァージョンでのカバー。よかった。試聴ブースにあるので聴く、コチラ。
おー、知ってる曲満載。爽やかだ。即買い。
夏にだけ引っ張り出して聴く1枚、というのがある。
たとえばSUMMERCAMPの『pure juice』というアルバムなんかがそうなんだけど。典型的なアメリカの一発屋。でも英国でもそうだけど一発屋なのに素晴らしいバンドは少なくない(the dandysとかな)。このSUMMERCAMPはその名の通り、夏の愛聴盤、去年は窓を開け放した教室の6階で、このCDを爆音で流しながら合宿の教材を印刷していた。思い出しただけで汗が出ちゃう。
食事をしてから、近くのショッピングモールまで歩いていく。10時まで紀伊国屋が開いていて、食料品とお酒なら11時まで購入できる。
この夏、テキーラの味を覚えようと買っていたボトルがもう空いちゃう。最近はバーにいってもとりあえずテキーラを飲むようにしていたんだけれど、またラムが飲みたくなって。ラムと、ジンジャーエールと、ビールを買う。本は買わなかった。
これも夏の支度。
精神的には隙がない。余裕ではなく、何か別の思考や違うシフトが入ることがない。緊張感があるといえばある、教務だけに専念出来るという意味では講習の時期は好きだ。カッコつけていえば研ぎ澄まされる感じ。
余裕がなくなる私生活を見越していろいろな支度を。
扇子を買ったこともそうだし、シャツを買ったり、夏らしいCDを購入したり。
今日は帰ってから1人でキッチンに入る。カウンターのむこうのリビングの照明を落とし、夜景を見ながら(というとゴージャスな感じがしてよくない?)料理に勤しむ。習慣としてTVは観ないので(阪神戦は観る。帰ってきた頃はちょうどラストイニングで負けてた。消す)CDをかける。
2週間ほどまえにTSUTAYAのカフェで流れていたのだ。
なんか心地よいボサノヴァだなー、でもこの曲って、…。トンプソンツインズの「Hold me now」だった。80年代を代表する超のつく名曲、そのボサノヴァヴァージョンでのカバー。よかった。試聴ブースにあるので聴く、コチラ。
おー、知ってる曲満載。爽やかだ。即買い。
夏にだけ引っ張り出して聴く1枚、というのがある。
たとえばSUMMERCAMPの『pure juice』というアルバムなんかがそうなんだけど。典型的なアメリカの一発屋。でも英国でもそうだけど一発屋なのに素晴らしいバンドは少なくない(the dandysとかな)。このSUMMERCAMPはその名の通り、夏の愛聴盤、去年は窓を開け放した教室の6階で、このCDを爆音で流しながら合宿の教材を印刷していた。思い出しただけで汗が出ちゃう。
食事をしてから、近くのショッピングモールまで歩いていく。10時まで紀伊国屋が開いていて、食料品とお酒なら11時まで購入できる。
この夏、テキーラの味を覚えようと買っていたボトルがもう空いちゃう。最近はバーにいってもとりあえずテキーラを飲むようにしていたんだけれど、またラムが飲みたくなって。ラムと、ジンジャーエールと、ビールを買う。本は買わなかった。
これも夏の支度。
スゲえタイミングで巡ってきたチャンスのおかげで、ようやくのこと、待望のその店に行った。
そこは以前、心斎橋にある薪屋の若いマスターに教えてもらったとっておきの店。日曜日が休みなので、その店のことを一緒に教えてもらった彼女を差し置いて1人で(別の人と)行ったり、1人で(別の人と)行かれたりしたくなくってずっと行かないまま、「あかずの店」になっていた。2人で前を通るたび、たいていそれは日曜日なので「開いてないよねー」「平日いっしょの休みなんてないよなー」と口惜しそうに僕らは不貞腐れた口調でいい交わした。その間もお互いが別のところで「魚が美味い店なんだよ」と噂だけを聞くことが度々あって、想いは募る×2。
ようやくのことでチャンスが巡ってきて、親愛なるオタ教員Wくんとカリスマ教師J氏の4人で行った。あやうく僕だけ仕事で行けなくなりそうだったが、まあそこはなんとか、…。
まぐろのほほとかあるんだよ。中津にこれも魚の美味い店があって、僕はそこでしか食べたことがない。鯨刺しもあんじゃん。うひゃー。
初夏の夕方から贅沢にビールを飲んだ。
その席でちょっと面白かったことが。
Wくんが「○○さんって××なんですよ」とその場にいなかった教員のことをいった。
物書きの彼女が、
「それってセンシティヴってことですよね」
といったのだけれど、それは隣に座っていた僕の耳には届いたが、むかいに座っていたWくんには聞こえなかった。それでWくんが、
「え?」
と訊ね返すと、彼女は、
「繊細ってことですよね」
といったのだ。Wくんは「そうですねー」と頷いていたけれども、僕はたまらなく可笑しかった。
「何、笑ってるんよー」と彼女が僕にいうので、僕はその場で解題。
「だってキミ、Wくんがセンシティヴって言葉、知らないって判断したんだろ」
事実はこうだと思う。Wくんは偶々聞こえなかっただけ。それで訊ね返した。多分、彼女はWくんの語彙を見限ったわけでは本当にないと思う。ただ“センシティヴ”って言葉の通用度合いが低い、と考えたのだと思う。それで即座により汎用性の高い“繊細”にいい換えたのだ。
おかしかったのはそういう判断。悪い意味ではなくって、そうやって言葉を臨機応変に使える能力が。日常で会話の流れに応じて、もしくはその言葉の通じ具合を見て言葉を変えていくなんて高等技術だと思うもの。日常で僕らはそういった自分内での選択や交換をやってはいる。出来ない人もいる。硬い言葉を頑張って使おうとして失敗している人も現実にはまあいることだし。
別に“センシティヴ”って言葉が衒学的だとは思わない。ただその交換ぶりに、その人のセンスと知性が表れる瞬間が見えたのでちょっと微笑ましかった。
誰かの思考が透けて見えて、それがなかなか利発だったらいいでしょ、ねぇ。
文章に惚れることはあるよ。
文章にはいろいろなものが出ると思う、という話もそういえば最近した。
マンガだったら絵のスキルが思想やセンスを制限するが、文章を書く、ということにおいてはそうではない。そうではないといい切るのは多少、分別を欠く気がするので、制限の幅が少ない、としておく。
品格なんかも反映される。シニカルな視線も笑いで中和する方法もスキルだけれど、それ以前の良識やセンスやが文章には表れる。いや、もっと根源的なもの。その人がそれまでに蓄積してきたいろんな経験や人間関係においての配慮や、そういったものまでが。
背伸びしている文章は見苦しい。文章は人間性にぴたりと皮膜のようにくっついて離れないものだと思っている。だからこそ、自分の書く文章にも品格があって欲しいと思うし、洒脱で洗練されていてほしいと願う。
その人のことを本当に好きになったのはその人の書く文章に触れてから。
そんなこといわれたら、ロマンティック過ぎてまいってしまう。
そこは以前、心斎橋にある薪屋の若いマスターに教えてもらったとっておきの店。日曜日が休みなので、その店のことを一緒に教えてもらった彼女を差し置いて1人で(別の人と)行ったり、1人で(別の人と)行かれたりしたくなくってずっと行かないまま、「あかずの店」になっていた。2人で前を通るたび、たいていそれは日曜日なので「開いてないよねー」「平日いっしょの休みなんてないよなー」と口惜しそうに僕らは不貞腐れた口調でいい交わした。その間もお互いが別のところで「魚が美味い店なんだよ」と噂だけを聞くことが度々あって、想いは募る×2。
ようやくのことでチャンスが巡ってきて、親愛なるオタ教員Wくんとカリスマ教師J氏の4人で行った。あやうく僕だけ仕事で行けなくなりそうだったが、まあそこはなんとか、…。
まぐろのほほとかあるんだよ。中津にこれも魚の美味い店があって、僕はそこでしか食べたことがない。鯨刺しもあんじゃん。うひゃー。
初夏の夕方から贅沢にビールを飲んだ。
その席でちょっと面白かったことが。
Wくんが「○○さんって××なんですよ」とその場にいなかった教員のことをいった。
物書きの彼女が、
「それってセンシティヴってことですよね」
といったのだけれど、それは隣に座っていた僕の耳には届いたが、むかいに座っていたWくんには聞こえなかった。それでWくんが、
「え?」
と訊ね返すと、彼女は、
「繊細ってことですよね」
といったのだ。Wくんは「そうですねー」と頷いていたけれども、僕はたまらなく可笑しかった。
「何、笑ってるんよー」と彼女が僕にいうので、僕はその場で解題。
「だってキミ、Wくんがセンシティヴって言葉、知らないって判断したんだろ」
事実はこうだと思う。Wくんは偶々聞こえなかっただけ。それで訊ね返した。多分、彼女はWくんの語彙を見限ったわけでは本当にないと思う。ただ“センシティヴ”って言葉の通用度合いが低い、と考えたのだと思う。それで即座により汎用性の高い“繊細”にいい換えたのだ。
おかしかったのはそういう判断。悪い意味ではなくって、そうやって言葉を臨機応変に使える能力が。日常で会話の流れに応じて、もしくはその言葉の通じ具合を見て言葉を変えていくなんて高等技術だと思うもの。日常で僕らはそういった自分内での選択や交換をやってはいる。出来ない人もいる。硬い言葉を頑張って使おうとして失敗している人も現実にはまあいることだし。
別に“センシティヴ”って言葉が衒学的だとは思わない。ただその交換ぶりに、その人のセンスと知性が表れる瞬間が見えたのでちょっと微笑ましかった。
誰かの思考が透けて見えて、それがなかなか利発だったらいいでしょ、ねぇ。
文章に惚れることはあるよ。
文章にはいろいろなものが出ると思う、という話もそういえば最近した。
マンガだったら絵のスキルが思想やセンスを制限するが、文章を書く、ということにおいてはそうではない。そうではないといい切るのは多少、分別を欠く気がするので、制限の幅が少ない、としておく。
品格なんかも反映される。シニカルな視線も笑いで中和する方法もスキルだけれど、それ以前の良識やセンスやが文章には表れる。いや、もっと根源的なもの。その人がそれまでに蓄積してきたいろんな経験や人間関係においての配慮や、そういったものまでが。
背伸びしている文章は見苦しい。文章は人間性にぴたりと皮膜のようにくっついて離れないものだと思っている。だからこそ、自分の書く文章にも品格があって欲しいと思うし、洒脱で洗練されていてほしいと願う。
その人のことを本当に好きになったのはその人の書く文章に触れてから。
そんなこといわれたら、ロマンティック過ぎてまいってしまう。
子供に勧める本、に僕は懐疑的だ。
よく「何か読ませるのにいい本、あります?」と訊ねられるけど、基本的には「一緒に本屋にいってくださいよ。そこで何か気に入ったのがあったら買ってあげて、たとえそれがお母さんの目から見てマンガみたいなヤツであっても」とだけ答えるようにしている。読書なんて他人から勧められて始められるものではない。ある程度、その習慣が自分のなかで定着し、自分の読書傾向みたいなものが出来、では次のステップ、と思ったときには他人の紹介も有効だと思うけど。
結局、本読みは本読みの意見しか信用しない、ということもある。
普段、本を読んだりそんな話をしたりしない相手から勧められても無意識で信用しない。子供に本を読ませようと思ったら、いちばんいいのはお母さんなりお父さんなりが本を読んでいる姿を見せることだ。親がちゃんとした本棚をもっていて、それが生活空間のなかにきちんと位置をしめていれば子供も本をちゃんと意識する。そうでなければ、そんなものなくたって生きていけると思ってしまうし、それは確かだ。
僕の父親はブキッシュな人だった。
(母親は全然、本を読まない。そのかわりラジオをよく聞いていた。70年代の話だよ。わが家の食卓ではTVは点いたことがない、いつもラジオが流れているなかで夕食を摂るのが常だった)
多分、そのせい。
それでも仕事柄、子供に勧めるブックリストみたいなものも作る。
無難なものではあるけれど、よくあるものにはしたくない。いわゆる古典的名作に反感があるわけではもちろんなく、ただそういった安定したリストならわざわざ作成する必要がないからな。
比較的若い教員たちが子供の頃、読んで面白かった本をリストアップし、ブキッシュな生徒といれば珍しく彼らに主旨を伝え、彼らの呼んで面白かった本を教えてもらい、それを読み(聞いただけで自分で読まずに勧めるなんてことは極力避けたい、というのがひとつ、もうひとつは、彼らが面白いと思って勧めてくれるんなら読まない手はないだろう、ということ)、よければリストに入れていく。
それでも、子供に本を勧めるという行為には懐疑的だ。やっぱり、それは自分の好みの押し付けではないか、という疑問が頭から離れない。
「これ、面白かったで」と生徒に勧める教員は少なくないが、そしてそれがいい結果を生むこともあると知ってはいるが、反面、ひどく恥ずかしい行為だという思いもある。
多分、僕のなかでは「読書」という行為はひどく「プライヴェート」なものなのだ。
だから、普通に訊ねられても答えない。自分が好きになった相手には、過剰に勧めてしまう。そういうものだと思っている。「好みの本」を知られることは「自分」を知られることだと思う。自分の好みの本を知られることは、無防備に自分の内面を晒け出すことだという強迫観念的な妄想じみた思いが僕のなかにはある。book crazyの宿命みたいなものだ。
でも本当に、生徒に勧めるとしたら何を?
中学生くらいで池澤夏樹(「スティル・ライフ」)と乙一(「GOTH」)と村上龍(「ラブ&ポップ」)とを読めれば幸せかも、と思う。クイーンやムアコックやもいいかも。東野圭吾もいいかもな(「白夜行」はいい。「容疑者Xの献身」だっていい)。
自分の子供なら平気で勧めるだろう。でも、公平に見て、読んでほしいと思う本の大半は不道徳だ。
「なぜ小説を書くのか?」というアンケートを受けたことがある。
「小説のなかではどんな冒涜的なことでも許されるから」と僕は答えた。それはとても危険でカッコいい行為だ。小説のなかでならどんな美学を突き通そうが許される、そこがいい。
よく「何か読ませるのにいい本、あります?」と訊ねられるけど、基本的には「一緒に本屋にいってくださいよ。そこで何か気に入ったのがあったら買ってあげて、たとえそれがお母さんの目から見てマンガみたいなヤツであっても」とだけ答えるようにしている。読書なんて他人から勧められて始められるものではない。ある程度、その習慣が自分のなかで定着し、自分の読書傾向みたいなものが出来、では次のステップ、と思ったときには他人の紹介も有効だと思うけど。
結局、本読みは本読みの意見しか信用しない、ということもある。
普段、本を読んだりそんな話をしたりしない相手から勧められても無意識で信用しない。子供に本を読ませようと思ったら、いちばんいいのはお母さんなりお父さんなりが本を読んでいる姿を見せることだ。親がちゃんとした本棚をもっていて、それが生活空間のなかにきちんと位置をしめていれば子供も本をちゃんと意識する。そうでなければ、そんなものなくたって生きていけると思ってしまうし、それは確かだ。
僕の父親はブキッシュな人だった。
(母親は全然、本を読まない。そのかわりラジオをよく聞いていた。70年代の話だよ。わが家の食卓ではTVは点いたことがない、いつもラジオが流れているなかで夕食を摂るのが常だった)
多分、そのせい。
それでも仕事柄、子供に勧めるブックリストみたいなものも作る。
無難なものではあるけれど、よくあるものにはしたくない。いわゆる古典的名作に反感があるわけではもちろんなく、ただそういった安定したリストならわざわざ作成する必要がないからな。
比較的若い教員たちが子供の頃、読んで面白かった本をリストアップし、ブキッシュな生徒といれば珍しく彼らに主旨を伝え、彼らの呼んで面白かった本を教えてもらい、それを読み(聞いただけで自分で読まずに勧めるなんてことは極力避けたい、というのがひとつ、もうひとつは、彼らが面白いと思って勧めてくれるんなら読まない手はないだろう、ということ)、よければリストに入れていく。
それでも、子供に本を勧めるという行為には懐疑的だ。やっぱり、それは自分の好みの押し付けではないか、という疑問が頭から離れない。
「これ、面白かったで」と生徒に勧める教員は少なくないが、そしてそれがいい結果を生むこともあると知ってはいるが、反面、ひどく恥ずかしい行為だという思いもある。
多分、僕のなかでは「読書」という行為はひどく「プライヴェート」なものなのだ。
だから、普通に訊ねられても答えない。自分が好きになった相手には、過剰に勧めてしまう。そういうものだと思っている。「好みの本」を知られることは「自分」を知られることだと思う。自分の好みの本を知られることは、無防備に自分の内面を晒け出すことだという強迫観念的な妄想じみた思いが僕のなかにはある。book crazyの宿命みたいなものだ。
でも本当に、生徒に勧めるとしたら何を?
中学生くらいで池澤夏樹(「スティル・ライフ」)と乙一(「GOTH」)と村上龍(「ラブ&ポップ」)とを読めれば幸せかも、と思う。クイーンやムアコックやもいいかも。東野圭吾もいいかもな(「白夜行」はいい。「容疑者Xの献身」だっていい)。
自分の子供なら平気で勧めるだろう。でも、公平に見て、読んでほしいと思う本の大半は不道徳だ。
「なぜ小説を書くのか?」というアンケートを受けたことがある。
「小説のなかではどんな冒涜的なことでも許されるから」と僕は答えた。それはとても危険でカッコいい行為だ。小説のなかでならどんな美学を突き通そうが許される、そこがいい。
「それって先生、洗脳ですよね」
と保護者の方にいわれたときも、僕は笑顔で、そうですね、と答えた。中学受験に限らない、極端な話、恋愛も社員教育も洗脳じゃないか、と思っている。そのプロセスで与える情報にウソが入っていればそれは邪で歪な洗脳になり、そうでない公平な見地に立ち私欲に基づかないなら、それはポジティヴなものになると思うんだけどどうかしら。
生徒の情熱を引き出すために「目的」を提示する。その「目的」の素晴らしさを訴える。本当に素晴らしいぞ、と思い込ませる。宗教と似ているかも、こういう世界になれば素晴らしいぞ、だからみんなでいまの社会を破壊、…これは危険だ。
中学受験は本当に素晴らしいか?
僕も私立中学組なので、そしてそれがとてもよかったと思っているので、積極的に勧められる。もちろん、「公立中学のよさもあると思う、それは知らないんだけど」ということや「学校にもいろいろあるから、一概に私立ならすべてよいとはいえない。本人に合うかどうかも考えないと」といったことは伝える。僕が感じた良さは、まあ二流の男子校だったということが大きいんだけれど、授業にも教師にも学校活動にも余裕があって、そのときの身丈ではちょっと背伸びしないと出来ないようなことをひそかにバックアップしてやらせてくれるような体制と心意気が学校にはあった。友達もまあまあ似た環境、似た思考レベル、似た良識をもった連中が集まっていたので楽しかった、ということか。それって重要なことだと思う。
基本的に、生徒にも保護者の方にも自分のことは語らない。語って誇れる学歴でもないのでそこは消極的にならざるを得ない、ということもあるけど。
まあ、塾の教師が自分の哲学を語るなんて押し付けだし自己陶酔だと思っている。僕がどんな人間であるかは、彼らの点数に影響しない。もとい、僕がどんな履歴を背負っているかも彼らの点数に影響しない。関係するのは、いま現在の僕が行う授業の質のみだ。
そうやって本来なら抱くべき劣等感をもたず、生意気にひとつひとつの授業を自信もってやっている。労働だったときはしんどかった。点で考えていたときはグレードは低かった。ライブだと考えライブのように生徒たちとやりとりし、授業は線でそれが合格発表というゴールに続くラインを描いているのだと思うようになってからは、手応えも感じる。志望校の偏差値から逆算し、時期や模試やカリキュラムやを材料にときどきの目標を提示し、自分の担当する教科以外とのバランスも考え、到達しなければ叱りも慰めも励ましもする。そういった過程で当然生まれる子供らしい疑問や子供ゆえのジレンマや子供なりの無力感やを解消してやりたいと思う。いや、やりたい、ではなく、それを仕事にしたのだから、解消してやらねば、と思う。そうして常に頭のなかにも胸にも張り付き疼くのは、こいつらは僕よりも利口だという思いで、そうでなければならないという願望でもある。
「最近になってうちの子、小説を読み出して」
といわれて思わず口を噤んでしまった。5年生ならいいだろう、読ましてやってください、好きなだけ、という。6年生だった。国語がめちゃめちゃ出来るそのキュートな女の子は、しかし国語だけが出来る生徒の常として本読みなんだろうなー、と勝手に思い込んでいたのだけれど、実際はそうではなかったらしい。最近になって読み始めたんだと。むむむ。
「何、読んでますか」
彼女がむさぼるように読んでいるのは父親の本棚だった。思わず、訊ねる。まあ、いろいろ、とお母さんはちょっと濁したが、いくつかさりげなく質問してミステリーが多いらしいと当たりはついた。
まあ、僕も母親から本を読むのは止められていたクチでしたけどね、といってしまって、ちょっと失敗したかも。先生も本好きでした? と問われて、まあ、と答える。
「どんな作家さんを?」
その質問は予想外。ちょっと困る。なんでも、と答えて、ああ、この答えは自分の嫌いな解答だったと思い、○○○とか、と告白してしまった。
こういう教員はダメだと思う。反省。
と保護者の方にいわれたときも、僕は笑顔で、そうですね、と答えた。中学受験に限らない、極端な話、恋愛も社員教育も洗脳じゃないか、と思っている。そのプロセスで与える情報にウソが入っていればそれは邪で歪な洗脳になり、そうでない公平な見地に立ち私欲に基づかないなら、それはポジティヴなものになると思うんだけどどうかしら。
生徒の情熱を引き出すために「目的」を提示する。その「目的」の素晴らしさを訴える。本当に素晴らしいぞ、と思い込ませる。宗教と似ているかも、こういう世界になれば素晴らしいぞ、だからみんなでいまの社会を破壊、…これは危険だ。
中学受験は本当に素晴らしいか?
僕も私立中学組なので、そしてそれがとてもよかったと思っているので、積極的に勧められる。もちろん、「公立中学のよさもあると思う、それは知らないんだけど」ということや「学校にもいろいろあるから、一概に私立ならすべてよいとはいえない。本人に合うかどうかも考えないと」といったことは伝える。僕が感じた良さは、まあ二流の男子校だったということが大きいんだけれど、授業にも教師にも学校活動にも余裕があって、そのときの身丈ではちょっと背伸びしないと出来ないようなことをひそかにバックアップしてやらせてくれるような体制と心意気が学校にはあった。友達もまあまあ似た環境、似た思考レベル、似た良識をもった連中が集まっていたので楽しかった、ということか。それって重要なことだと思う。
基本的に、生徒にも保護者の方にも自分のことは語らない。語って誇れる学歴でもないのでそこは消極的にならざるを得ない、ということもあるけど。
まあ、塾の教師が自分の哲学を語るなんて押し付けだし自己陶酔だと思っている。僕がどんな人間であるかは、彼らの点数に影響しない。もとい、僕がどんな履歴を背負っているかも彼らの点数に影響しない。関係するのは、いま現在の僕が行う授業の質のみだ。
そうやって本来なら抱くべき劣等感をもたず、生意気にひとつひとつの授業を自信もってやっている。労働だったときはしんどかった。点で考えていたときはグレードは低かった。ライブだと考えライブのように生徒たちとやりとりし、授業は線でそれが合格発表というゴールに続くラインを描いているのだと思うようになってからは、手応えも感じる。志望校の偏差値から逆算し、時期や模試やカリキュラムやを材料にときどきの目標を提示し、自分の担当する教科以外とのバランスも考え、到達しなければ叱りも慰めも励ましもする。そういった過程で当然生まれる子供らしい疑問や子供ゆえのジレンマや子供なりの無力感やを解消してやりたいと思う。いや、やりたい、ではなく、それを仕事にしたのだから、解消してやらねば、と思う。そうして常に頭のなかにも胸にも張り付き疼くのは、こいつらは僕よりも利口だという思いで、そうでなければならないという願望でもある。
「最近になってうちの子、小説を読み出して」
といわれて思わず口を噤んでしまった。5年生ならいいだろう、読ましてやってください、好きなだけ、という。6年生だった。国語がめちゃめちゃ出来るそのキュートな女の子は、しかし国語だけが出来る生徒の常として本読みなんだろうなー、と勝手に思い込んでいたのだけれど、実際はそうではなかったらしい。最近になって読み始めたんだと。むむむ。
「何、読んでますか」
彼女がむさぼるように読んでいるのは父親の本棚だった。思わず、訊ねる。まあ、いろいろ、とお母さんはちょっと濁したが、いくつかさりげなく質問してミステリーが多いらしいと当たりはついた。
まあ、僕も母親から本を読むのは止められていたクチでしたけどね、といってしまって、ちょっと失敗したかも。先生も本好きでした? と問われて、まあ、と答える。
「どんな作家さんを?」
その質問は予想外。ちょっと困る。なんでも、と答えて、ああ、この答えは自分の嫌いな解答だったと思い、○○○とか、と告白してしまった。
こういう教員はダメだと思う。反省。
ビアガーデンって行ったことないんだよね、というと、オタのWくんも「ないですねー」と答えた。じゃあ、行こうよ、という話になって、日曜日に決行。だいたいそういうときのメンバーは決まっているんだけどその日は1人欠席で3人になった。もう1人はカリスマ社会教師のH先生。
場所は阪神百貨店の屋上、そうそう、阪神タイガースの試合を中継で見られる、いかにも大阪らしい(らしさ全開の)ビアガーデンに決めた。心配事といえばH先生って雨男なので、飲んでる間に雨に降られるんじゃないかってこと。
5時からだと思って集合を5時にした。
大阪へ出る途中の電車のなかで、やはり雨がぽつぽつと、…。マジで?
降ったり降らなかったりの天気だなー、鬱陶しい。ビアガーデンって雨が降ったらどうなるんだろう? パラソルが配備されるとか? いや、あの阪神百貨店のことだし、客の大半はタイガースが勝っていれば雨が降ろうがビールが降ろうが構わないような人たちだろうし。
百貨店に着くと5時30分からだった判った。
「じゃあ、しばらく時間を潰す?」
ということで、僕らはメンズのフロアへ移った。ネクタイでも見ながら時間を過ごそう、ということになった。それはそれで貴重な体験なので面白い。Wくんがニナリッチのネクタイをよさ気な目で見ていたのがよかった。そのネクタイは僕もいいな、と思った。白を基調にメタリックな黒が施されている。あまり見ない感じ。僕は、しきりに彼に勧めていたんだけれど、何でなんだろ。何であんなに他人の物欲を刺激して買わそう買わそうとしてたんだろう。百貨店の回し者かしら。
で、時間がきたので屋上に上がるともう結構な人が並んでいた。最後尾に付く。それでもすいすいと列は進み、僕らは適当な位置に座る。
飲み放題・食べ放題。食事は、…むむむ、それほどヴァリエーションが多いわけでもめっちゃうまい、というワケでもない。ただ夏の夕方に野球を見ながらつまむにはまあこれくらいでいいだろう。ビールの飲み放題は確かに勢いがあった。黒ビールもある。ビール以外もいろいろある。途中、H先生がスクリュードライバーを飲みだしたんだけれど、それもビールジョッキに注がれていて、Wくんが「ジョッキいっぱいのスクリュードライバーは壮観ですねぇ」といった。酔い潰されそうだと僕も思った。
試合が始まり、それなりにもりあがり出す。途中、シーツ選手が退場になったときは、屋上騒然となった。空がだんだん暮れ始めていき、紫色に染まった夏の空をきれいだと思った。油断したのを見破ったように、雨が降ってくる。女の子を含むグループが傘を差し出したので、僕らの位置からは試合を流しているモニターは傘に隠れて見えなくなった。
普段はいえない仕事の話なんかもやっぱり、する。
最近はちょっと不満が多いので、いかんいかんと自分で自戒はするものの、こういうことを考えている、と誰かに知っていてほしい気持ちはある。相手もだいたい同じアウトラインをもつ、もしくは同じベクトルの方向をもつことを考えていたりするとちょっと安心もし、希望も持てる。相手からもまた僕の知らなかった問題点が指摘され、ちょっと精神的な荷物が増える。おおっ、なかなか大変そうだな。あれもこれも。
ビールをぐいぐい飲む。
雨が止むと傘が閉じ、試合がまた観られるようになる。
「もう少し酒が入ったらさっきのネクタイ、勝っちゃうよね」
僕がそういうとWくんは「そうですかねぇ」と満更でもないような笑みを見せていた。僕がそうで、飲んだ帰り道はヤバい。CDなんかほいほい買ってしまう。
結局、僕らが少し早い目に切り上げてビアガーデンを出たときにも、もう阪神百貨店は閉店してしまっていた。ちぇっ、と僕。閉まってますねぇ、と少しも残念そうでない口ぶりでWくんはいう。H先生は笑っている。
ネクタイを買わせたかった僕の気持ちは、女の子がプリクラを撮る心理と一緒なんだろう。Wくんがこのとき買ったネクタイを締めているのをいつか仕事の場で見たときに、僕は楽しい記憶としてこの日のことを思い出した筈なのだ。何か、痕跡が欲しかったんだよ、多分だけど。そのネクタイにまつわる3人の共通の体験みたいなものとか。それを象徴するようなものとかが。
場所は阪神百貨店の屋上、そうそう、阪神タイガースの試合を中継で見られる、いかにも大阪らしい(らしさ全開の)ビアガーデンに決めた。心配事といえばH先生って雨男なので、飲んでる間に雨に降られるんじゃないかってこと。
5時からだと思って集合を5時にした。
大阪へ出る途中の電車のなかで、やはり雨がぽつぽつと、…。マジで?
降ったり降らなかったりの天気だなー、鬱陶しい。ビアガーデンって雨が降ったらどうなるんだろう? パラソルが配備されるとか? いや、あの阪神百貨店のことだし、客の大半はタイガースが勝っていれば雨が降ろうがビールが降ろうが構わないような人たちだろうし。
百貨店に着くと5時30分からだった判った。
「じゃあ、しばらく時間を潰す?」
ということで、僕らはメンズのフロアへ移った。ネクタイでも見ながら時間を過ごそう、ということになった。それはそれで貴重な体験なので面白い。Wくんがニナリッチのネクタイをよさ気な目で見ていたのがよかった。そのネクタイは僕もいいな、と思った。白を基調にメタリックな黒が施されている。あまり見ない感じ。僕は、しきりに彼に勧めていたんだけれど、何でなんだろ。何であんなに他人の物欲を刺激して買わそう買わそうとしてたんだろう。百貨店の回し者かしら。
で、時間がきたので屋上に上がるともう結構な人が並んでいた。最後尾に付く。それでもすいすいと列は進み、僕らは適当な位置に座る。
飲み放題・食べ放題。食事は、…むむむ、それほどヴァリエーションが多いわけでもめっちゃうまい、というワケでもない。ただ夏の夕方に野球を見ながらつまむにはまあこれくらいでいいだろう。ビールの飲み放題は確かに勢いがあった。黒ビールもある。ビール以外もいろいろある。途中、H先生がスクリュードライバーを飲みだしたんだけれど、それもビールジョッキに注がれていて、Wくんが「ジョッキいっぱいのスクリュードライバーは壮観ですねぇ」といった。酔い潰されそうだと僕も思った。
試合が始まり、それなりにもりあがり出す。途中、シーツ選手が退場になったときは、屋上騒然となった。空がだんだん暮れ始めていき、紫色に染まった夏の空をきれいだと思った。油断したのを見破ったように、雨が降ってくる。女の子を含むグループが傘を差し出したので、僕らの位置からは試合を流しているモニターは傘に隠れて見えなくなった。
普段はいえない仕事の話なんかもやっぱり、する。
最近はちょっと不満が多いので、いかんいかんと自分で自戒はするものの、こういうことを考えている、と誰かに知っていてほしい気持ちはある。相手もだいたい同じアウトラインをもつ、もしくは同じベクトルの方向をもつことを考えていたりするとちょっと安心もし、希望も持てる。相手からもまた僕の知らなかった問題点が指摘され、ちょっと精神的な荷物が増える。おおっ、なかなか大変そうだな。あれもこれも。
ビールをぐいぐい飲む。
雨が止むと傘が閉じ、試合がまた観られるようになる。
「もう少し酒が入ったらさっきのネクタイ、勝っちゃうよね」
僕がそういうとWくんは「そうですかねぇ」と満更でもないような笑みを見せていた。僕がそうで、飲んだ帰り道はヤバい。CDなんかほいほい買ってしまう。
結局、僕らが少し早い目に切り上げてビアガーデンを出たときにも、もう阪神百貨店は閉店してしまっていた。ちぇっ、と僕。閉まってますねぇ、と少しも残念そうでない口ぶりでWくんはいう。H先生は笑っている。
ネクタイを買わせたかった僕の気持ちは、女の子がプリクラを撮る心理と一緒なんだろう。Wくんがこのとき買ったネクタイを締めているのをいつか仕事の場で見たときに、僕は楽しい記憶としてこの日のことを思い出した筈なのだ。何か、痕跡が欲しかったんだよ、多分だけど。そのネクタイにまつわる3人の共通の体験みたいなものとか。それを象徴するようなものとかが。
小説を書いているといろんなことが判る。人間関係の機微に関して想像力が働くようになるとか、人が劣等感をもっているときにどんな行動に出るかとか。
言動の種類から、多分こういうことを考えているんだろうな、といった行間を読むクセが習慣として身についてしまうということもある。常にそれが的確であるとは限らないんだけど。
ここ数日の間にまったく異なる相手から、
「そんなふうに人の考えを読まない(笑)」
と警告を受けた。
ひとりはとても信頼している上司。「それ、考えすぎ」と笑いながらいわれた。
「会話の行間を読むのがクセになってるんですよ」と僕は答えた。「臆病なもんで」
そういうと上司はまた笑った。
もうひとりは友人。まあ、当たってなくもなかったのだろう。
まったく異なる相手から同じ指摘を受ける、という経験はもうひとつあった。
「長い小説を書きたいんじゃないの?」
と。ひとりは古くからの友人、そう、映画を撮っていた頃からの。もうひとりはとても信頼している異性の、物書きの友人。
どちらも、ここ2ヶ月ほどの間に書いた僕の小説の感想として。そうかも、とただ思うだけなんだけど。確かに、ここ数ヶ月、僕は嬉々として書いていた。楽しそうだったからかな? 些か内容が枚数に見合っていなくて書き飛ばした感があったからかな。
長い小説を書きたいんだろ、という指摘は、裏返せば、これもっとじっくり長く書けよ、という指摘なのかも知れない。この指摘をしてきた先のひとりは、僕の小説を相当数読んでいるとても誠実な人で、もうひとりは僕がその書く能力をとても高く評価していて、ある種類の文章については僕よりも数段上のスキルを持っている。自覚はしてないみたいだけど。ブキッシュであるという点では一目も二目も置く相手。
この前、長い小説を書いたのってもう1年以上前になるのか。120枚くらいだったっけ。
最近はどうなんだろ。
長い(といっても100枚強)小説を書くときって、それなりの準備がいる。準備、というか素材か。その枚数を支えるだけの主人公の造形と、エピソードと、そして書く意義とが。
この最後の意義がなかなか曲者なんだよな。自分がそれを本当に書きたいのか? という哲学めいた疑問と重なる。お前は本当に小説を書きたいと思っているのか?
まるで別れた恋人のことを無理に忘れようとするときみたいに、別れを正当化するみたいに、その彼女のことを嫌う理由をあれこれ思い出しながら考えてみるようにして、小説が好きかどうか、書く意味があるかどうかを自分の内的理由としてこじつけていく。それほど苦労はしない。
小説を書くことで得たものが多くある、その過程で自分の感性とか洞察だとかが研ぎ澄まされていくあの感じが好きだ。利口でない人はそれなりにしか、利口な人はより明晰な、作品を仕上げられるというシビアさも望むところだ。小説に限らず文章を書くという行為は、残酷なまでにその人のいろいろを露にする。書かれた文章を見て、こいつは配慮が足りない、知恵が足りない、知識が少ないクセに思い上がっている、借り物で満足するヤツだ、…そういった面まで伺い知れる。邪推もある。でもたいていは、主観的に正解だ。
反対にその人の書いた文章を読んで、激しく恋してしまうこともあるよ。
なにより小説を書くことってカッコいい。
まあ、多少ナルちゃんなのは承知のうえで、小説を書いている自分が好きだ。最近は授業をしている自分もひどく好きなんだけど。
ぼんやりとだけれど自分にこの夏の宿題を課す。それを頭のなかで適当に転がしていく。いつしか輪郭がはっきりとしてきて、その手触りが馴染んで来て、それは書かれるかも知れない。いちばん待ち望んでいるのは自分だし、その期待に応えるのも自分だし。
言動の種類から、多分こういうことを考えているんだろうな、といった行間を読むクセが習慣として身についてしまうということもある。常にそれが的確であるとは限らないんだけど。
ここ数日の間にまったく異なる相手から、
「そんなふうに人の考えを読まない(笑)」
と警告を受けた。
ひとりはとても信頼している上司。「それ、考えすぎ」と笑いながらいわれた。
「会話の行間を読むのがクセになってるんですよ」と僕は答えた。「臆病なもんで」
そういうと上司はまた笑った。
もうひとりは友人。まあ、当たってなくもなかったのだろう。
まったく異なる相手から同じ指摘を受ける、という経験はもうひとつあった。
「長い小説を書きたいんじゃないの?」
と。ひとりは古くからの友人、そう、映画を撮っていた頃からの。もうひとりはとても信頼している異性の、物書きの友人。
どちらも、ここ2ヶ月ほどの間に書いた僕の小説の感想として。そうかも、とただ思うだけなんだけど。確かに、ここ数ヶ月、僕は嬉々として書いていた。楽しそうだったからかな? 些か内容が枚数に見合っていなくて書き飛ばした感があったからかな。
長い小説を書きたいんだろ、という指摘は、裏返せば、これもっとじっくり長く書けよ、という指摘なのかも知れない。この指摘をしてきた先のひとりは、僕の小説を相当数読んでいるとても誠実な人で、もうひとりは僕がその書く能力をとても高く評価していて、ある種類の文章については僕よりも数段上のスキルを持っている。自覚はしてないみたいだけど。ブキッシュであるという点では一目も二目も置く相手。
この前、長い小説を書いたのってもう1年以上前になるのか。120枚くらいだったっけ。
最近はどうなんだろ。
長い(といっても100枚強)小説を書くときって、それなりの準備がいる。準備、というか素材か。その枚数を支えるだけの主人公の造形と、エピソードと、そして書く意義とが。
この最後の意義がなかなか曲者なんだよな。自分がそれを本当に書きたいのか? という哲学めいた疑問と重なる。お前は本当に小説を書きたいと思っているのか?
まるで別れた恋人のことを無理に忘れようとするときみたいに、別れを正当化するみたいに、その彼女のことを嫌う理由をあれこれ思い出しながら考えてみるようにして、小説が好きかどうか、書く意味があるかどうかを自分の内的理由としてこじつけていく。それほど苦労はしない。
小説を書くことで得たものが多くある、その過程で自分の感性とか洞察だとかが研ぎ澄まされていくあの感じが好きだ。利口でない人はそれなりにしか、利口な人はより明晰な、作品を仕上げられるというシビアさも望むところだ。小説に限らず文章を書くという行為は、残酷なまでにその人のいろいろを露にする。書かれた文章を見て、こいつは配慮が足りない、知恵が足りない、知識が少ないクセに思い上がっている、借り物で満足するヤツだ、…そういった面まで伺い知れる。邪推もある。でもたいていは、主観的に正解だ。
反対にその人の書いた文章を読んで、激しく恋してしまうこともあるよ。
なにより小説を書くことってカッコいい。
まあ、多少ナルちゃんなのは承知のうえで、小説を書いている自分が好きだ。最近は授業をしている自分もひどく好きなんだけど。
ぼんやりとだけれど自分にこの夏の宿題を課す。それを頭のなかで適当に転がしていく。いつしか輪郭がはっきりとしてきて、その手触りが馴染んで来て、それは書かれるかも知れない。いちばん待ち望んでいるのは自分だし、その期待に応えるのも自分だし。
駅を出て部屋にはむかわず少しだけ反対の方向へと歩くと通りに面して灯がついている店がある。バーだった。へーっ、こんなところにバー、あんじゃん。今度来よう、と思ったのが今週の初め。
今日、試しに行ってみた。
以前通りがかったときは、暗い店内にちょっとケバい感じの女の子が客としていた。それもネオンの点いた窓越しに見たくらい店内の一瞬の記憶だったから少しも確かではない。ビビりながらむかう。ドアを開ける。店の奥にはダーツがあって、スロットのようなものもあって(ヤバい? とマジで最初思った。別にイリーガルなものではなかった)、テーブルにはカードやオセロ盤が置いてある。客層もひとりで来ている若い男(グランジ系、もしくはフリーターっぽい)人たちでさらにビビる。
店の名前は『GOLDEN YEARS』だった。
数日前、前を通りかかったときから、僕は(デヴィッド・ボウィじゃん)と思っていた。
実際に入ってみるとアメリカ映画のいわゆる場末のバーっぽい倦怠感が漂っていて、少しもグラムの豪華さはないんですけど、…。
マスターは気さくだった。カウンターで座り飲みだす。飲みだしてからしばらくして振り返った壁に、ギターやF1の模型と並んでアルバムのジャケットが2枚、貼られていた。デヴィッド・ボウイとバウハウスだった。お、グラム発見。店の選択を誤ったか? と思う僕に、ボウィが、いや間違ってないよ、と語りかけてきたように思った。
マスターが、
「バーとかよく行きますか?」
と話しかけてきた。
「ええ。キタとか。この辺じゃないですよね、あんまり」
そう答えると、マスターはコミカルな渋い顔になって、ないですねぇ、と頷いた。
「出来てもすぐ潰れます」
「この店はもうずいぶん前から?」
「6年目ですわ」
といった会話から、最初は酒の話を。それから音楽の話になった。
「店の名前、デヴィッド・ボウィでしょ」
「好きなんですよ。でもいまはお客さんのいうとおりに、あれ(ダーツのことらしい)置いたり、それからあんなんも置いたり(それはガンダムのプラモデルだった)してると、ぜんぜん当初思ってた店の感じとは違ってきたんですけど」
「最初はグラムっぽい店だったんすか?」
「いや、まあそこまでではなかったですけどね」
ボウィのアルバムで何が好きか、という話になった。本当に好きな人ってこういう質問には答えてくれないかも。1枚なんか選べるわけがない、と思っているか。それとも即答か。
「“スペース・オディティ”かな。“ジギー・スターダスト”はベタすぎていえない」
「ああ、…僕は“ハンキー・ドリー”が好きなんですよ」
“LOW”もいいとか、“ヒーローズ”も捨てがたいとか、そんな話を。
しばらして若い女の子がひとりで入って来た。常連ぽい。
カウンターで飲み始めたその子が、ダーツの前に立った。それは僕の座っていたすぐ後ろにあったので、肩越しに首を少し傾けるととても近いところに見えた。
投げる。ヒットするとビョヨンと大きな電子音が轟く。
その子は素人目に見てもとてもヘタクソだった。腕のフリがなってなかった。なぜか、それがとてもいい気がした。
今日、試しに行ってみた。
以前通りがかったときは、暗い店内にちょっとケバい感じの女の子が客としていた。それもネオンの点いた窓越しに見たくらい店内の一瞬の記憶だったから少しも確かではない。ビビりながらむかう。ドアを開ける。店の奥にはダーツがあって、スロットのようなものもあって(ヤバい? とマジで最初思った。別にイリーガルなものではなかった)、テーブルにはカードやオセロ盤が置いてある。客層もひとりで来ている若い男(グランジ系、もしくはフリーターっぽい)人たちでさらにビビる。
店の名前は『GOLDEN YEARS』だった。
数日前、前を通りかかったときから、僕は(デヴィッド・ボウィじゃん)と思っていた。
実際に入ってみるとアメリカ映画のいわゆる場末のバーっぽい倦怠感が漂っていて、少しもグラムの豪華さはないんですけど、…。
マスターは気さくだった。カウンターで座り飲みだす。飲みだしてからしばらくして振り返った壁に、ギターやF1の模型と並んでアルバムのジャケットが2枚、貼られていた。デヴィッド・ボウイとバウハウスだった。お、グラム発見。店の選択を誤ったか? と思う僕に、ボウィが、いや間違ってないよ、と語りかけてきたように思った。
マスターが、
「バーとかよく行きますか?」
と話しかけてきた。
「ええ。キタとか。この辺じゃないですよね、あんまり」
そう答えると、マスターはコミカルな渋い顔になって、ないですねぇ、と頷いた。
「出来てもすぐ潰れます」
「この店はもうずいぶん前から?」
「6年目ですわ」
といった会話から、最初は酒の話を。それから音楽の話になった。
「店の名前、デヴィッド・ボウィでしょ」
「好きなんですよ。でもいまはお客さんのいうとおりに、あれ(ダーツのことらしい)置いたり、それからあんなんも置いたり(それはガンダムのプラモデルだった)してると、ぜんぜん当初思ってた店の感じとは違ってきたんですけど」
「最初はグラムっぽい店だったんすか?」
「いや、まあそこまでではなかったですけどね」
ボウィのアルバムで何が好きか、という話になった。本当に好きな人ってこういう質問には答えてくれないかも。1枚なんか選べるわけがない、と思っているか。それとも即答か。
「“スペース・オディティ”かな。“ジギー・スターダスト”はベタすぎていえない」
「ああ、…僕は“ハンキー・ドリー”が好きなんですよ」
“LOW”もいいとか、“ヒーローズ”も捨てがたいとか、そんな話を。
しばらして若い女の子がひとりで入って来た。常連ぽい。
カウンターで飲み始めたその子が、ダーツの前に立った。それは僕の座っていたすぐ後ろにあったので、肩越しに首を少し傾けるととても近いところに見えた。
投げる。ヒットするとビョヨンと大きな電子音が轟く。
その子は素人目に見てもとてもヘタクソだった。腕のフリがなってなかった。なぜか、それがとてもいい気がした。
小説を書くときに、ダサい小説、ダルい小説にはしたくないと思う。
そのために注意しているのは、
1)説明や観念的な描写が多くならないこと
2)人物が考えるよりまず、動くこと
1も2も実はほとんど同じことで、主人公がうだうだ考えて何もしない、あるいはどうでもいいようなことを考えたり迷ったりして、結局たいしたことのない結論を大仰に出すこと、などを避けようとする。必要以上に感傷的になって落ち込むのもどうか。読者から「へえーっ、そうなのぉ」と冷たく突き放されると寒いよな、やっぱり。
人物、特に主人公が行動する、その辺りのリビドーが読者と上手くシンクロするようにとは思う。説得力は観念的なこちらの(ご都合主義的な)言葉ではなく、何より物語と行動とに伴うと思う。
回想シーンもご都合主義的だ。出来ればこれも避ける。
そういったことごとを生真面目に自分に課し、あるいは禁忌としたことを避けようと腐心していた時期がある。
その頃の、小説に対して誠実だった自分は、別にいま悪びれるわけではないが、もう失われてしまった誠実さを持ち合わせている自分は貴重だ。その頃、身につけたノウハウや発見したいくつかの個人的なセオリーは、いまでも窮地を救う。小説を書く愉しみを与えてくれる。
回想シーンなんか要らない、と口癖のようにいっていた時期、僕はノワールを書きたいと思っていた。実際の、小心者で勇気も行動力も欠く僕と違い、規律や中途半端な良識やに縛られている自分と違い、アモラルな主人公が事件に流されるように、それにただ抗うように、破天荒で良識のない行動を起こす、セックスとヴァイオレンスに満ちた、観念や哲学なんかの入り込むような余地のない小説を。
その願望はいまでもある。ここ数年、主人公たちをどんなひどい目にあわせてもココロ痛まなくなってきたので時期は近いかも。実生活での劣等感を破壊するような小説が。
『少女は踊る暗い腹の中踊る/岡崎隼人』の帯コピーはこうだ。
「子供たちのダークサイドを抉る青春ノワールの進化型デビュー!!」
面白かった、でも子供たちのダークサイドというのは看板に偽りありだ。ノワールなのかどうかと問われると、…これはノワール観に因るだろう。ジム・トンプスンのような退廃的ででも成熟した、いうなれば熟した時期を過ぎてしまって腐った果実のような芳香さは、ない。
焦燥感は、ある。
事件の展開は強引で面白かった。僕は読みながら何度も舞城王太朗を思い出したし、これは手に取った人の多くが感じるところではないかしら。もちろん舞城フォロワーから見れば、岡崎は厚みがない。その代わり読み捨ててもいいような軽薄さ、もしくは読み飛ばし可能な展開の速さは備わっている。舞城は人工的な品格の唾棄を見事な芸としていたが、こちらは、そうだな、落書きみたいな小説だ。作者自身はそれを褒め言葉ととるかも知れない、そういう読み方を好む読者もけっして少なくはない(と思う)。
コインランドリーという設定がもう少し活きればな、よかったのに、とは思うが。もしくは蒼以へのめりこむ主人公の気持ちがもう少し伝わってくれば。切なさも際立っただろう。この主人公ってブサイクで背も低い劣等感のある男の筈なのだが、行動力がそれをついつい忘れさせてしまうのだ。
ノワールの魅力が“日常”のなかでの“ぶっとんだ”行為にあるとするなら、この小説の世界観はだんだん主人公たちの血塗れの行動に引きずられて“日常”から乖離していく。そういう点では、立脚点の描写不足・世界の厚みの不足から、やや物足りなさを感じたのは確か。ジム・トンプスンってそういう意味でもやはり品がある。悪を際立たせるためには日常の精緻な潔癖さをきちんと描かないと、物足りないか。
でもこれだけ強引で無茶な設定でもどうにか辻褄が合っているのは、これもひとつの芸だろう。次回作もそれなりに期待、出来れば短い作品の方がいい。長い小説だと破綻も長さに隠蔽される、といったのは数少ない僕の小説の師匠のひとりだが、最近の、特にミステリー作家にはそれが見事に当てはまっていると思うぞ。
そのために注意しているのは、
1)説明や観念的な描写が多くならないこと
2)人物が考えるよりまず、動くこと
1も2も実はほとんど同じことで、主人公がうだうだ考えて何もしない、あるいはどうでもいいようなことを考えたり迷ったりして、結局たいしたことのない結論を大仰に出すこと、などを避けようとする。必要以上に感傷的になって落ち込むのもどうか。読者から「へえーっ、そうなのぉ」と冷たく突き放されると寒いよな、やっぱり。
人物、特に主人公が行動する、その辺りのリビドーが読者と上手くシンクロするようにとは思う。説得力は観念的なこちらの(ご都合主義的な)言葉ではなく、何より物語と行動とに伴うと思う。
回想シーンもご都合主義的だ。出来ればこれも避ける。
そういったことごとを生真面目に自分に課し、あるいは禁忌としたことを避けようと腐心していた時期がある。
その頃の、小説に対して誠実だった自分は、別にいま悪びれるわけではないが、もう失われてしまった誠実さを持ち合わせている自分は貴重だ。その頃、身につけたノウハウや発見したいくつかの個人的なセオリーは、いまでも窮地を救う。小説を書く愉しみを与えてくれる。
回想シーンなんか要らない、と口癖のようにいっていた時期、僕はノワールを書きたいと思っていた。実際の、小心者で勇気も行動力も欠く僕と違い、規律や中途半端な良識やに縛られている自分と違い、アモラルな主人公が事件に流されるように、それにただ抗うように、破天荒で良識のない行動を起こす、セックスとヴァイオレンスに満ちた、観念や哲学なんかの入り込むような余地のない小説を。
その願望はいまでもある。ここ数年、主人公たちをどんなひどい目にあわせてもココロ痛まなくなってきたので時期は近いかも。実生活での劣等感を破壊するような小説が。
『少女は踊る暗い腹の中踊る/岡崎隼人』の帯コピーはこうだ。
「子供たちのダークサイドを抉る青春ノワールの進化型デビュー!!」
面白かった、でも子供たちのダークサイドというのは看板に偽りありだ。ノワールなのかどうかと問われると、…これはノワール観に因るだろう。ジム・トンプスンのような退廃的ででも成熟した、いうなれば熟した時期を過ぎてしまって腐った果実のような芳香さは、ない。
焦燥感は、ある。
事件の展開は強引で面白かった。僕は読みながら何度も舞城王太朗を思い出したし、これは手に取った人の多くが感じるところではないかしら。もちろん舞城フォロワーから見れば、岡崎は厚みがない。その代わり読み捨ててもいいような軽薄さ、もしくは読み飛ばし可能な展開の速さは備わっている。舞城は人工的な品格の唾棄を見事な芸としていたが、こちらは、そうだな、落書きみたいな小説だ。作者自身はそれを褒め言葉ととるかも知れない、そういう読み方を好む読者もけっして少なくはない(と思う)。
コインランドリーという設定がもう少し活きればな、よかったのに、とは思うが。もしくは蒼以へのめりこむ主人公の気持ちがもう少し伝わってくれば。切なさも際立っただろう。この主人公ってブサイクで背も低い劣等感のある男の筈なのだが、行動力がそれをついつい忘れさせてしまうのだ。
ノワールの魅力が“日常”のなかでの“ぶっとんだ”行為にあるとするなら、この小説の世界観はだんだん主人公たちの血塗れの行動に引きずられて“日常”から乖離していく。そういう点では、立脚点の描写不足・世界の厚みの不足から、やや物足りなさを感じたのは確か。ジム・トンプスンってそういう意味でもやはり品がある。悪を際立たせるためには日常の精緻な潔癖さをきちんと描かないと、物足りないか。
でもこれだけ強引で無茶な設定でもどうにか辻褄が合っているのは、これもひとつの芸だろう。次回作もそれなりに期待、出来れば短い作品の方がいい。長い小説だと破綻も長さに隠蔽される、といったのは数少ない僕の小説の師匠のひとりだが、最近の、特にミステリー作家にはそれが見事に当てはまっていると思うぞ。
塾業界に入って最初に勤めたのは大手といっても差し支えない塾で、そこには3年いた。後半の1年は毎日、辞める計画を頭のなかで立てながら出勤していたような記憶が、…。あまり健全ではない。
3年は続ける、と決めていた。人生とか社会とかどれもゲームのようなものだ、そのルールなりコツなりを覚えないといつまでも負け続ける、いまの会社を苦痛に思うのはルールがちゃんと把握できていないからだ、そのルールを飲み込めないまま辞めてしまえば、また次の会社でも、同じように負ける。そう思っていたので。3年で人生や社会の基本的なルールを知ろうと、それを知るまでは辞められないと。
人間関係は悪くなかったけれど、狭かった。ひとつの教室に入るとそこの教員がすべて。移動もない。毎日、同じ7人ほどだけで世界が形作られて、それが20歳代前半の僕には怖かったのだ。もっと広い見晴らしのいい場所に出ておかないと不味いのではないか、という気持ちが強くあった。この仕事は就業時間が終わったあとでどこかに出て仕事以外の人と会う、というのが難しい。
塾講師としての心構えも何もなかった僕は、ここで出会った2人の師匠に塾講師としてのなんたるか、イロハを叩き込まれたと思っている。いまでもその2人には頭が上がらない。
1人は数学の講師で、もう1人は理科の講師。
数学の講師とはもう4、5年? いやもっと会ってない。ヘレン・メリルのCDが借りっぱなしになっている。教室を辞められていまは個人塾を開業されてるので、会いに行こうと思えば行けるんだけど。
理科の講師とはいまでもちょくちょく会う。とても怖い人。会ったらいつも浴びるように飲み、飲んだら必ずどうでもいいようなことでロジックを張り合わせ、そしてたいてい、いい負かされちゃう。
最初、出会ってから2年ほど、僕はこの講師に嫌われていた(と思う。そういうと、「そっちが嫌ってたんだろ」といわれるが、…)。口も碌に利いてもらえなかった。まあ、なんとかその人のなかに実力で自分の位置を切り開いていったという感じ。
水曜日、その師匠と会って飲んだ。
そのときに「記憶」の話になった。最近、思い出せないものが多くなった、という話から。そのとき、思い出せればカタルシスがあるので(別に茂木先生の受け売りではなく)、僕はなんとか思い出すようにしている。調べない、いまのところそれで支障はないから大丈夫、みたいなことを酔った僕はいった。
先日も、ずっと思い出せないものがひとつあって、それを誰にもいわずに(いう機会も必要も頻繁にあった)考え続けて思い出すことが出来ていたので。ちなみにそれはある画家の名前で、その画家の絵は頭のなかに浮かんでいるのだけれど、名前だけ出てこない。コアな名前で忘れているのではなく、とてもメジャーな名前なので本当の度忘れ。
「まったく思い出せないんじゃなくって、何か別のものに邪魔されて思い出せないっていうのがいちばん厄介と違います?」
僕がいうとそれには師匠も首肯する。
その画家の名前を思い出そうとしていたとき、なぜかいつもマグリットの名前が出てきて、僕は(全然、違うやんけー)とあの傘を持った男たちが天から降ってくる絵に対して突っ込み続けたのだった。
ちなみに思い出したかった画家の名前はシャガール。
(シャガール展にデートへ行く予定があったにもかかわらず思い出せなかった僕は、その話題がメールで出るたび遠回しな表現に走っていた)
デート数日前になんとか思い出す、思い出せなければ僕は誰を見るのか名前も思い出せないまま、ヘラヘラと偽者の笑顔で出向かわなければならなかったかも。そして会場が近づいたところで、そうそう、オレってシャガールを見に来たかったんだよなー、と間抜けな発見をこっそりとしなければならなかったのかも。…。
師匠と話しているとき、さらにもうひとつ、度忘れ出現。
『竹鶴』を飲むという話題から、それを教えてもらったバーの話になり、『山崎』の話になりシングルモルトの話になり、
「あれ、なんでしたっけ。正露丸みたいな味のするシングルモルトがあるんですよ」
「セイロガン?」
ええ、なんだったっけなー。
他にヒントは? と問われて、僕は以下の断片的すぎる手がかりをどうにか捻り出す。
1)それはシングルモルト
2)最初の文字はFの音
3)正露丸の味
以上3点。
時間は真夜中すぎ、2時半。師匠は携帯電話を取り出し、「こんな時間やったら○○しかおあらへんなー」といいながら女性のところへメールを。僕は記憶のインデクスを酔った頭で必死に検索。しばらくすると師匠の携帯が鳴る。はやい。「ごめんなー」といいながら先の条件を師匠は伝える。ちょっと待ってや、と電話のむこうの声。いったん切れて、かかってきたのは5分と経っていない。
「ごめん、わからへんわー。リキュールやったらそれらしいのあるねんけどな」
といわれた。
実はこの時点で僕の出した手がかりに齟齬があった。調べられる筈がない、不正確な手がかりを百出したところで正解には行き着けない。でも度忘れの最中にある僕はもちろんそのことには気づかない。
結局、その夜、その酒の名前を思い出すことはなかった。
調べればすぐに判る。どこにその名前が書かれているか、よく知っている。リーフレットも本棚のなかにはある。
「でも、そういうのって“すぐ判る”って判ってる方法で調べたくないやんか」
とは師匠の弁。そういえばこの人、バーとかスナックでしょっちゅいろんな知識や雑学を元にした話題で盛り上がっているらしく、「○○年の芥川賞って誰やったっけ?」とか「最近、売れてるこんな粗筋の小説って何?」とか不意のメールが入ることはしばしばあった。そうか、この人にとっては携帯電話がドラえもんの道具みたいなもので、僕はその『小説』とか『本』とかのインデクスにレッテルを貼られて収まっているんだろう。
先の正露丸の味のするシングルモルトは、『ラフロイグ』だった。詳しくはコチラ。
申し訳ないです、最初のアルファベットは“F”ではなく“L”でした。記憶、ヤバいなー。
3年は続ける、と決めていた。人生とか社会とかどれもゲームのようなものだ、そのルールなりコツなりを覚えないといつまでも負け続ける、いまの会社を苦痛に思うのはルールがちゃんと把握できていないからだ、そのルールを飲み込めないまま辞めてしまえば、また次の会社でも、同じように負ける。そう思っていたので。3年で人生や社会の基本的なルールを知ろうと、それを知るまでは辞められないと。
人間関係は悪くなかったけれど、狭かった。ひとつの教室に入るとそこの教員がすべて。移動もない。毎日、同じ7人ほどだけで世界が形作られて、それが20歳代前半の僕には怖かったのだ。もっと広い見晴らしのいい場所に出ておかないと不味いのではないか、という気持ちが強くあった。この仕事は就業時間が終わったあとでどこかに出て仕事以外の人と会う、というのが難しい。
塾講師としての心構えも何もなかった僕は、ここで出会った2人の師匠に塾講師としてのなんたるか、イロハを叩き込まれたと思っている。いまでもその2人には頭が上がらない。
1人は数学の講師で、もう1人は理科の講師。
数学の講師とはもう4、5年? いやもっと会ってない。ヘレン・メリルのCDが借りっぱなしになっている。教室を辞められていまは個人塾を開業されてるので、会いに行こうと思えば行けるんだけど。
理科の講師とはいまでもちょくちょく会う。とても怖い人。会ったらいつも浴びるように飲み、飲んだら必ずどうでもいいようなことでロジックを張り合わせ、そしてたいてい、いい負かされちゃう。
最初、出会ってから2年ほど、僕はこの講師に嫌われていた(と思う。そういうと、「そっちが嫌ってたんだろ」といわれるが、…)。口も碌に利いてもらえなかった。まあ、なんとかその人のなかに実力で自分の位置を切り開いていったという感じ。
水曜日、その師匠と会って飲んだ。
そのときに「記憶」の話になった。最近、思い出せないものが多くなった、という話から。そのとき、思い出せればカタルシスがあるので(別に茂木先生の受け売りではなく)、僕はなんとか思い出すようにしている。調べない、いまのところそれで支障はないから大丈夫、みたいなことを酔った僕はいった。
先日も、ずっと思い出せないものがひとつあって、それを誰にもいわずに(いう機会も必要も頻繁にあった)考え続けて思い出すことが出来ていたので。ちなみにそれはある画家の名前で、その画家の絵は頭のなかに浮かんでいるのだけれど、名前だけ出てこない。コアな名前で忘れているのではなく、とてもメジャーな名前なので本当の度忘れ。
「まったく思い出せないんじゃなくって、何か別のものに邪魔されて思い出せないっていうのがいちばん厄介と違います?」
僕がいうとそれには師匠も首肯する。
その画家の名前を思い出そうとしていたとき、なぜかいつもマグリットの名前が出てきて、僕は(全然、違うやんけー)とあの傘を持った男たちが天から降ってくる絵に対して突っ込み続けたのだった。
ちなみに思い出したかった画家の名前はシャガール。
(シャガール展にデートへ行く予定があったにもかかわらず思い出せなかった僕は、その話題がメールで出るたび遠回しな表現に走っていた)
デート数日前になんとか思い出す、思い出せなければ僕は誰を見るのか名前も思い出せないまま、ヘラヘラと偽者の笑顔で出向かわなければならなかったかも。そして会場が近づいたところで、そうそう、オレってシャガールを見に来たかったんだよなー、と間抜けな発見をこっそりとしなければならなかったのかも。…。
師匠と話しているとき、さらにもうひとつ、度忘れ出現。
『竹鶴』を飲むという話題から、それを教えてもらったバーの話になり、『山崎』の話になりシングルモルトの話になり、
「あれ、なんでしたっけ。正露丸みたいな味のするシングルモルトがあるんですよ」
「セイロガン?」
ええ、なんだったっけなー。
他にヒントは? と問われて、僕は以下の断片的すぎる手がかりをどうにか捻り出す。
1)それはシングルモルト
2)最初の文字はFの音
3)正露丸の味
以上3点。
時間は真夜中すぎ、2時半。師匠は携帯電話を取り出し、「こんな時間やったら○○しかおあらへんなー」といいながら女性のところへメールを。僕は記憶のインデクスを酔った頭で必死に検索。しばらくすると師匠の携帯が鳴る。はやい。「ごめんなー」といいながら先の条件を師匠は伝える。ちょっと待ってや、と電話のむこうの声。いったん切れて、かかってきたのは5分と経っていない。
「ごめん、わからへんわー。リキュールやったらそれらしいのあるねんけどな」
といわれた。
実はこの時点で僕の出した手がかりに齟齬があった。調べられる筈がない、不正確な手がかりを百出したところで正解には行き着けない。でも度忘れの最中にある僕はもちろんそのことには気づかない。
結局、その夜、その酒の名前を思い出すことはなかった。
調べればすぐに判る。どこにその名前が書かれているか、よく知っている。リーフレットも本棚のなかにはある。
「でも、そういうのって“すぐ判る”って判ってる方法で調べたくないやんか」
とは師匠の弁。そういえばこの人、バーとかスナックでしょっちゅいろんな知識や雑学を元にした話題で盛り上がっているらしく、「○○年の芥川賞って誰やったっけ?」とか「最近、売れてるこんな粗筋の小説って何?」とか不意のメールが入ることはしばしばあった。そうか、この人にとっては携帯電話がドラえもんの道具みたいなもので、僕はその『小説』とか『本』とかのインデクスにレッテルを貼られて収まっているんだろう。
先の正露丸の味のするシングルモルトは、『ラフロイグ』だった。詳しくはコチラ。
申し訳ないです、最初のアルファベットは“F”ではなく“L”でした。記憶、ヤバいなー。
予想外の共感とか、子供っぽい秘密めいた事件で接点を感じるとか、そういうのってロマンティックだと思うだろ?
某日、あれなんでサンドウィッチの話になったんだったっけ。
僕「サンドウィッチって、世間一般ではサンドウィッチ伯爵がその名の由来とされているみたいだけど、違う説もあるのを知ってる?」
彼女「砂(サンド)と魔女(ウィッチ)以外なら何でもはさんで食べちゃえるからでしょ」
僕「!!! なんで知ってるの?」
実は僕が披露しようとしていた説は、『パタリロ!』に出てくるのだけれど、こんなの知っていえる人がいるだなんて。
僕が突っ込んで訊ねると、彼女は「なぜかその巻1冊だけ家にあるのよねー」と答えた。この挿話のいちばんのポイントが彼女が熱狂的なパタリロフリークではないというところ、そうだとしたら別に不思議でも何でもない、ただの魔夜峰央ファンが2人いたというだけの話だ。
『パタリロ!』が好きだ、なんでだろ、別にヴァンに○○れたいとか、マライヒを○きたい、とかいう理由ではないし、もちろんパタリロを○きたいとか○○れたいとかいうことでも勿論ない。まあマンガがマンガなのでいちおう、書いて呆けておくけど。
ひとつには作者のブキッシュぶりがあると思う。ミステリーが多いけれどもそれにとどまらず、引用のセンスや、コアな知識に基づくシャープな展開に魅了される。
先日、本屋に平積みにされてる『パタリロ!』を見つけ、その巻数の多さもさることながら、ヴァリエーションの多さにもちょっと息を飲んだ。『西遊記』くらいまでは知っていたんだけれどな、…。
詳しくはコチラかコチラ
某日、あれなんでサンドウィッチの話になったんだったっけ。
僕「サンドウィッチって、世間一般ではサンドウィッチ伯爵がその名の由来とされているみたいだけど、違う説もあるのを知ってる?」
彼女「砂(サンド)と魔女(ウィッチ)以外なら何でもはさんで食べちゃえるからでしょ」
僕「!!! なんで知ってるの?」
実は僕が披露しようとしていた説は、『パタリロ!』に出てくるのだけれど、こんなの知っていえる人がいるだなんて。
僕が突っ込んで訊ねると、彼女は「なぜかその巻1冊だけ家にあるのよねー」と答えた。この挿話のいちばんのポイントが彼女が熱狂的なパタリロフリークではないというところ、そうだとしたら別に不思議でも何でもない、ただの魔夜峰央ファンが2人いたというだけの話だ。
『パタリロ!』が好きだ、なんでだろ、別にヴァンに○○れたいとか、マライヒを○きたい、とかいう理由ではないし、もちろんパタリロを○きたいとか○○れたいとかいうことでも勿論ない。まあマンガがマンガなのでいちおう、書いて呆けておくけど。
ひとつには作者のブキッシュぶりがあると思う。ミステリーが多いけれどもそれにとどまらず、引用のセンスや、コアな知識に基づくシャープな展開に魅了される。
先日、本屋に平積みにされてる『パタリロ!』を見つけ、その巻数の多さもさることながら、ヴァリエーションの多さにもちょっと息を飲んだ。『西遊記』くらいまでは知っていたんだけれどな、…。
詳しくはコチラかコチラ
人生の時間を大きく2つに分けてみる。1つは、小説を書いているとき、もう1つは書いていないとき。書いていないときは小説のことを考えているときだ。
実際には小説を書いてもいなければ考えてもいない時間が多くある。多く? そうだな、以前はもしかしたら(カッコつけるわけではない)本当に、先に挙げた2つの時間のいずれかにいたような気がする。だんだんそうではなくなっていった。たとえば塾の講師として生徒の成績を上げることだけしか考えていないような時間とか、好きな人とケーキを食べ、その贅沢さに身も心も奪われてしまっている時間とか。それはそれで素敵だ。耽溺する時間、というか記憶はあった方がいい。もちろん冷静で明晰な観察者たれ、とも思うが、エモーショナルな部分も実感として知っていないとつまらない。
今月は、小説のことを考える時間が多くとれるんじゃないか、と数日思っている。
まあ本当なら夏期講習前の仕事がいちばん忙しい時期。なのだが、今月たまたま、毎月末に抱える締切が2つ、ともに翌月回しになった。それで。
ひとつは、雑誌で書いているコラム。マイナーだが、全国の大型という冠詞つきの書店であるならそこの店頭に並ぶような雑誌、それに書かせてもらっている。映画に絡んだ記事なら何を書いてもだいたいは許される。原稿用紙にして3枚半くらい。
もうひとつは仲間と2年半ほど前からwebでやっている小説のサイト。こちらは50枚弱くらい。まあゲームのようなもの。僕よりも多忙なクセに同じように皆勤で書き続けているメンバーが何人かいて、彼らもスゴい。
そのどちらもの締切がもろもろの事情ゆえに今月はない。
それで贅沢な時間がある。油断もしている。余裕をもって1ヶ月後にそれぞれ2ヶ月分のパワーなり工夫なりをした原稿を上げられればいうことはないが、油断して時間だけ無為に過ごしてしまうかも知れない。まあ、そうなったらなったでいいや、と思えるくらいの人生に対する割り切りもなくはない。
不思議なもので、普段なら追われるようにしてヒーヒーいいながら書くのが常なのに、締切が先だと思うと逆に小説のことばかり考えてしまう。せっかくだから時間を有効に使おうという貧乏性のなせる業か。
小説のことを考えるのは楽しい。
書き出すと、なかなか思うようにいかない困難が出てきたりもして辛い。
でもそのなかで不意に、キラと翻るナイフの刃先のような表現や、ジグソウパズルのピースが思いもかけなかったような美しい形で嵌ることがあったりもして、精緻な絵を見せてくれたりもして、驚かされたりする。オレってスゲぇよな、と思う。
その快感を味わってしまうと書くことの楽しさが判ってくる。
小説の出来上がりって、実は書きだす前のいくつかの些細な選択が、ほぼ決めてしまっていると思う。一人称で書くか三人称で書くか、という選択もそう。一人称で書くとしたとき、「オレ」にするか「わたし」にするか「僕」にするかもそう。
このblogでは僕は「僕」を使っている、ときどきは精神的コスプレで「オレ」も使う。人称を変えるとその行動も変わる気がする。「オレ」と自分のことを呼ぶ人間と「わたし」と呼ぶ人間とでは、同じ問題に直面しても同じ対応は取らないと思う。
小説は人が「考え」に基づき「行動」するものだと信じているので、その人称の選択は大切だ。
実際には小説を書いてもいなければ考えてもいない時間が多くある。多く? そうだな、以前はもしかしたら(カッコつけるわけではない)本当に、先に挙げた2つの時間のいずれかにいたような気がする。だんだんそうではなくなっていった。たとえば塾の講師として生徒の成績を上げることだけしか考えていないような時間とか、好きな人とケーキを食べ、その贅沢さに身も心も奪われてしまっている時間とか。それはそれで素敵だ。耽溺する時間、というか記憶はあった方がいい。もちろん冷静で明晰な観察者たれ、とも思うが、エモーショナルな部分も実感として知っていないとつまらない。
今月は、小説のことを考える時間が多くとれるんじゃないか、と数日思っている。
まあ本当なら夏期講習前の仕事がいちばん忙しい時期。なのだが、今月たまたま、毎月末に抱える締切が2つ、ともに翌月回しになった。それで。
ひとつは、雑誌で書いているコラム。マイナーだが、全国の大型という冠詞つきの書店であるならそこの店頭に並ぶような雑誌、それに書かせてもらっている。映画に絡んだ記事なら何を書いてもだいたいは許される。原稿用紙にして3枚半くらい。
もうひとつは仲間と2年半ほど前からwebでやっている小説のサイト。こちらは50枚弱くらい。まあゲームのようなもの。僕よりも多忙なクセに同じように皆勤で書き続けているメンバーが何人かいて、彼らもスゴい。
そのどちらもの締切がもろもろの事情ゆえに今月はない。
それで贅沢な時間がある。油断もしている。余裕をもって1ヶ月後にそれぞれ2ヶ月分のパワーなり工夫なりをした原稿を上げられればいうことはないが、油断して時間だけ無為に過ごしてしまうかも知れない。まあ、そうなったらなったでいいや、と思えるくらいの人生に対する割り切りもなくはない。
不思議なもので、普段なら追われるようにしてヒーヒーいいながら書くのが常なのに、締切が先だと思うと逆に小説のことばかり考えてしまう。せっかくだから時間を有効に使おうという貧乏性のなせる業か。
小説のことを考えるのは楽しい。
書き出すと、なかなか思うようにいかない困難が出てきたりもして辛い。
でもそのなかで不意に、キラと翻るナイフの刃先のような表現や、ジグソウパズルのピースが思いもかけなかったような美しい形で嵌ることがあったりもして、精緻な絵を見せてくれたりもして、驚かされたりする。オレってスゲぇよな、と思う。
その快感を味わってしまうと書くことの楽しさが判ってくる。
小説の出来上がりって、実は書きだす前のいくつかの些細な選択が、ほぼ決めてしまっていると思う。一人称で書くか三人称で書くか、という選択もそう。一人称で書くとしたとき、「オレ」にするか「わたし」にするか「僕」にするかもそう。
このblogでは僕は「僕」を使っている、ときどきは精神的コスプレで「オレ」も使う。人称を変えるとその行動も変わる気がする。「オレ」と自分のことを呼ぶ人間と「わたし」と呼ぶ人間とでは、同じ問題に直面しても同じ対応は取らないと思う。
小説は人が「考え」に基づき「行動」するものだと信じているので、その人称の選択は大切だ。
午前中は仕事だったので午後からデート。予定していたのは映画だったけれど、まあ不測の事態で、…流れてしまった。むむむ、2度もチャンスを逃すと縁がないのかと思う。珍しく(?)彼女の方から期待している、と宣言してきた作品だけに、観たかったのだが。
でもそのおかげで時間に余裕が出来たと前向きに考えることに。
nakataniでケーキも。おお、そんなチャンスが訪れるとは。
(この辺りの経緯や地図が頭のなかでしっくりとくる人がいたら驚いちゃうだろうな。ま、いいか)
それから、
「どうしよう?」
と余った時間について訊ねる。
彼女はバーゲンクレイジーなので、きっと行きたいんだろうな、と思う。世間は真っ最中。僕はご存知のように身形には無頓着、…ではないと思うがバーゲンに命を賭けたりはしない。まあ多分、大方の男はそうだと思う。
でも好奇心? というか興味はたいていのことにはある。くわえて、その人となら多分どこに行っても楽しいと思う。
「やっぱりバーゲンですか」
「そうだよね」
というやりとりがあって、百貨店にむかう。どこに行っても人は多い。「多いねー」といっている僕らの後ろで「多いなー」とまた別の誰かがいっている、ということは何度もあった。
結局、彼女のバーゲンにおつきあいする、というつもりだったのに、僕がつきあってもらう形になった。いや、スーツが、…ごにょごにょ。
「どんなんお探しですか」
とショップの兄さんが訊ねてくる。
ストライプが、とか、色の感じはちょっとブルーないしは緑っぽいグレイがいいんだとか、釦は3つが主流なのか、とかいった会話を交わす。
「主流と流行は違いますんでね」
といったアドバイザーがいた。
「細い襟は流行です、これはいつか廃れます。これくらいの普通の襟は主流ですわ、これは廃れることはない」
細いこういった襟をナローラペルっていうんですけど、と彼。
「え? ナロー、…」
「ナローラペル」
ああ、そういうんだ。
ここで僕はひとつ覚えたわけなんだけど、果たしてそれをどう使うか。
小説を書く僕は考える。たとえばこんな描写が許されるのか。「男は、緊張を隠すように上着のナローラペルを二度、三度、その形を整えるかのように指でなぞった」。
あるいは、「男とはまともに顔を合わせることが出来ず、ただただクロスステッチのボタンばかりを見ていた」とか。
小説を書くとき、迂回を意識し、最短距離を意識する。文としての味が出る、感じられる、それが小説を読む醍醐味につながるような迂回を。
本筋にもそういったテイストにも関係なく、物語のスピード感なりテンポなりを意識するときは言葉とイメージとの最短距離を。その場面を読む人の頭のなかに映像として無駄なくイメージを生み出したいときには、省略と的確で少ない語数を用いることを意識する。
ナローラペルである、ということはあまり場面に要求されない。くわえて、その言葉に認知度は高くない気がするので、用いても十分に効果的だとは思えない。
でも知識としては贅沢な気分になる。小説では使わなくとも、知っているだけで自分の使える抽象的なある範囲が広くなったような気がする、そういう言葉は贅沢だと思うし、その知る経緯もまた贅沢だと思う。
その彼女が以前、「ジーンズのピロピロが」といったとき僕は目を剥いて「ええっ? 何?」といった。
ポケットについている蓋のことだった。ちなみにそれ、フラップというらしいよ。ピロピロとはいわないらしい。
駅で別れてから、
「もし今度バーゲン期間中の百貨店の場面を小説のなかで書いていたら、それは間違いなく今日の経験が元になっている筈だから、ああ、あのときのことね、と思い出して笑って」
といった旨のメールを僕は送った。
そういった、僕よりも多いかどうかではなく、僕とズレたところで、かつ贅沢な知識を持っていて、そこにスムースに引き込んでくれるキミを、僕はとても魅力的だと思ってる。
でもそのおかげで時間に余裕が出来たと前向きに考えることに。
nakataniでケーキも。おお、そんなチャンスが訪れるとは。
(この辺りの経緯や地図が頭のなかでしっくりとくる人がいたら驚いちゃうだろうな。ま、いいか)
それから、
「どうしよう?」
と余った時間について訊ねる。
彼女はバーゲンクレイジーなので、きっと行きたいんだろうな、と思う。世間は真っ最中。僕はご存知のように身形には無頓着、…ではないと思うがバーゲンに命を賭けたりはしない。まあ多分、大方の男はそうだと思う。
でも好奇心? というか興味はたいていのことにはある。くわえて、その人となら多分どこに行っても楽しいと思う。
「やっぱりバーゲンですか」
「そうだよね」
というやりとりがあって、百貨店にむかう。どこに行っても人は多い。「多いねー」といっている僕らの後ろで「多いなー」とまた別の誰かがいっている、ということは何度もあった。
結局、彼女のバーゲンにおつきあいする、というつもりだったのに、僕がつきあってもらう形になった。いや、スーツが、…ごにょごにょ。
「どんなんお探しですか」
とショップの兄さんが訊ねてくる。
ストライプが、とか、色の感じはちょっとブルーないしは緑っぽいグレイがいいんだとか、釦は3つが主流なのか、とかいった会話を交わす。
「主流と流行は違いますんでね」
といったアドバイザーがいた。
「細い襟は流行です、これはいつか廃れます。これくらいの普通の襟は主流ですわ、これは廃れることはない」
細いこういった襟をナローラペルっていうんですけど、と彼。
「え? ナロー、…」
「ナローラペル」
ああ、そういうんだ。
ここで僕はひとつ覚えたわけなんだけど、果たしてそれをどう使うか。
小説を書く僕は考える。たとえばこんな描写が許されるのか。「男は、緊張を隠すように上着のナローラペルを二度、三度、その形を整えるかのように指でなぞった」。
あるいは、「男とはまともに顔を合わせることが出来ず、ただただクロスステッチのボタンばかりを見ていた」とか。
小説を書くとき、迂回を意識し、最短距離を意識する。文としての味が出る、感じられる、それが小説を読む醍醐味につながるような迂回を。
本筋にもそういったテイストにも関係なく、物語のスピード感なりテンポなりを意識するときは言葉とイメージとの最短距離を。その場面を読む人の頭のなかに映像として無駄なくイメージを生み出したいときには、省略と的確で少ない語数を用いることを意識する。
ナローラペルである、ということはあまり場面に要求されない。くわえて、その言葉に認知度は高くない気がするので、用いても十分に効果的だとは思えない。
でも知識としては贅沢な気分になる。小説では使わなくとも、知っているだけで自分の使える抽象的なある範囲が広くなったような気がする、そういう言葉は贅沢だと思うし、その知る経緯もまた贅沢だと思う。
その彼女が以前、「ジーンズのピロピロが」といったとき僕は目を剥いて「ええっ? 何?」といった。
ポケットについている蓋のことだった。ちなみにそれ、フラップというらしいよ。ピロピロとはいわないらしい。
駅で別れてから、
「もし今度バーゲン期間中の百貨店の場面を小説のなかで書いていたら、それは間違いなく今日の経験が元になっている筈だから、ああ、あのときのことね、と思い出して笑って」
といった旨のメールを僕は送った。
そういった、僕よりも多いかどうかではなく、僕とズレたところで、かつ贅沢な知識を持っていて、そこにスムースに引き込んでくれるキミを、僕はとても魅力的だと思ってる。
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