コンピュータが出来たきっかけが、戦争中にドイツの暗号を解読するためだった、…というのはなんとなく知っていた。そのときのドイツの暗号がエニグマという名前だったのも。
物語は結構急に始まる。
具体的な目的は伏せられたまま、ある仕事の応募に来たのが主人公アラン・チューリング。実はその仕事とは? それが先に述べたどいつの暗号解読、そして戦争の終結で、軍は暗号解読のプロフェッシナル集団を組織するために、人材を集めていたのだった。チームの面々はさまざまで、言語に精通したもの、チェスのチャンピオン、記号に詳しいもの、…とかそんな感じチームの面々は自分の得意な分野を活かしつつ、それを融合させて暗号解読を果たそうとするのだが、チューリングだけはわが道を行く。基本的に彼は他人と共同して何かをやる、ということが出来ない。過去のトラウマのせい、ではなく、そのトラウマのきっかけとなる事件以前から、彼は他人とは違う考え方をする人間で、他人を理解するとかしてもらうとか、何かを一緒にするとか、助けるとか助けられるとかは出来ない人間なのだ。不器用? 途中でその不器用ぶりにクスッと笑える好感度の高いシーンもあるが、根本的には彼は嫌なヤツだ。
映画としてはなかなか面白かったが、観終わった感想は、
「なんだかライトノベルっぽい映画だな」
だった。中二病的、というか。
何より、この映画って主人公がぜんぜん成長しない。最初からイヤなヤツとして登場し、いろいろ葛藤したり、他人と交流するなかで人のやさしさや好意に触れて、それまでとは異なる気分になったりもしている筈なのだが、最終的にはぜんぜん変わらない。
キーラ・ナイトレイ演じるジョーンはめちゃくちゃ美人で天才で、偏屈なチューリングを彼女なりに受け入れてもくれるのだが、そのジョーンに接近するところからして、「お、ついに変人のお前も恋に堕ちたか」と思わせておいて、結局打算だものな。途中、さる問題によって彼女を大切に想っていることを強く表す場面もあるのだが、結局そのあとの展開として、彼女への執着は長続きせず、もう二度と戻ることはなく、その根底にはやっぱり、「どうせ僕のことは他人には理解出来ないのだ」という諦観に塗れていて、その諦観って本当は思い上がりなんだよな、と観ているわれわれにはもうすっかりお見通しなのだ。
何が中二病っぽいかというと、この主人公は、
・他人には理解も出来ないくらいにスゴい、能力がある
・そのせいで思い上がり他人を見下して生きている
ここまではいい。よくある。ところが、
・周囲の人間はそれでもチューリングを認めて、受け入れ、擁護までする(なんでや!? 才能を認めたからかっ?)
・そして成功する。いつの間にかすっかり、チームのなかで主導権も信頼も勝ち得る
自分に特殊な能力がある、とか、ぜんぜん魅力的ではない主人公が何もしないでぼんやりしているだけで素敵な恋人が出来てしまう、とか、…もうそんな都合のいい展開はマンガ(あるいは安っぽいドラマかラノベ)のなかだけでしか起こることはない。しかし、史実に基づくシリアスな物語の展開を持ち、登場する脇キャラたちも渋くキャラ立ち度バッチリなこの映画、観ている間はどきどきしたし正直結構泣けたし、ああっ、とぽかんと口を開けて興奮する場面もあったし、好きなんだけど、なんだかこの青臭さだけは、その印象は払拭できないでいる。
これが『イミテーション・ゲーム』だけのことならぜんぜんかまわないんだけど、映画の主要な流れになってしまうと、なんだかなぁ、と勝手にひとり危惧している。よく出来たお子様ランチもたまになら結構だが、レストランにそれしかなくなると、やっぱりイヤだ。
キーラ・ナイトレイも素敵だったが、チェスのチャンピオンで、チームの仲間でありチューリングのライバルとなるヒューはめっちゃカッコよかった・上司たちの思惑がさまざまな形で交錯し、その間で翻弄されるという展開もよい。ひさびにチャールズ・ダンス(印象深いのは『エイリアン3』)も観られた。なにより、冒頭で出て来る現在時間軸のなかで、チューリングを取り調べる刑事が、最近のボンドシリーズで、ボンドの同僚でMI6の事務職員、Mの右腕タナーを演じていた役者(ロリー・キニアっていうのか)だったのもよかった。装飾や顔ぶれは大変英国的である。
物語は結構急に始まる。
具体的な目的は伏せられたまま、ある仕事の応募に来たのが主人公アラン・チューリング。実はその仕事とは? それが先に述べたどいつの暗号解読、そして戦争の終結で、軍は暗号解読のプロフェッシナル集団を組織するために、人材を集めていたのだった。チームの面々はさまざまで、言語に精通したもの、チェスのチャンピオン、記号に詳しいもの、…とかそんな感じチームの面々は自分の得意な分野を活かしつつ、それを融合させて暗号解読を果たそうとするのだが、チューリングだけはわが道を行く。基本的に彼は他人と共同して何かをやる、ということが出来ない。過去のトラウマのせい、ではなく、そのトラウマのきっかけとなる事件以前から、彼は他人とは違う考え方をする人間で、他人を理解するとかしてもらうとか、何かを一緒にするとか、助けるとか助けられるとかは出来ない人間なのだ。不器用? 途中でその不器用ぶりにクスッと笑える好感度の高いシーンもあるが、根本的には彼は嫌なヤツだ。
映画としてはなかなか面白かったが、観終わった感想は、
「なんだかライトノベルっぽい映画だな」
だった。中二病的、というか。
何より、この映画って主人公がぜんぜん成長しない。最初からイヤなヤツとして登場し、いろいろ葛藤したり、他人と交流するなかで人のやさしさや好意に触れて、それまでとは異なる気分になったりもしている筈なのだが、最終的にはぜんぜん変わらない。
キーラ・ナイトレイ演じるジョーンはめちゃくちゃ美人で天才で、偏屈なチューリングを彼女なりに受け入れてもくれるのだが、そのジョーンに接近するところからして、「お、ついに変人のお前も恋に堕ちたか」と思わせておいて、結局打算だものな。途中、さる問題によって彼女を大切に想っていることを強く表す場面もあるのだが、結局そのあとの展開として、彼女への執着は長続きせず、もう二度と戻ることはなく、その根底にはやっぱり、「どうせ僕のことは他人には理解出来ないのだ」という諦観に塗れていて、その諦観って本当は思い上がりなんだよな、と観ているわれわれにはもうすっかりお見通しなのだ。
何が中二病っぽいかというと、この主人公は、
・他人には理解も出来ないくらいにスゴい、能力がある
・そのせいで思い上がり他人を見下して生きている
ここまではいい。よくある。ところが、
・周囲の人間はそれでもチューリングを認めて、受け入れ、擁護までする(なんでや!? 才能を認めたからかっ?)
・そして成功する。いつの間にかすっかり、チームのなかで主導権も信頼も勝ち得る
自分に特殊な能力がある、とか、ぜんぜん魅力的ではない主人公が何もしないでぼんやりしているだけで素敵な恋人が出来てしまう、とか、…もうそんな都合のいい展開はマンガ(あるいは安っぽいドラマかラノベ)のなかだけでしか起こることはない。しかし、史実に基づくシリアスな物語の展開を持ち、登場する脇キャラたちも渋くキャラ立ち度バッチリなこの映画、観ている間はどきどきしたし正直結構泣けたし、ああっ、とぽかんと口を開けて興奮する場面もあったし、好きなんだけど、なんだかこの青臭さだけは、その印象は払拭できないでいる。
これが『イミテーション・ゲーム』だけのことならぜんぜんかまわないんだけど、映画の主要な流れになってしまうと、なんだかなぁ、と勝手にひとり危惧している。よく出来たお子様ランチもたまになら結構だが、レストランにそれしかなくなると、やっぱりイヤだ。
キーラ・ナイトレイも素敵だったが、チェスのチャンピオンで、チームの仲間でありチューリングのライバルとなるヒューはめっちゃカッコよかった・上司たちの思惑がさまざまな形で交錯し、その間で翻弄されるという展開もよい。ひさびにチャールズ・ダンス(印象深いのは『エイリアン3』)も観られた。なにより、冒頭で出て来る現在時間軸のなかで、チューリングを取り調べる刑事が、最近のボンドシリーズで、ボンドの同僚でMI6の事務職員、Mの右腕タナーを演じていた役者(ロリー・キニアっていうのか)だったのもよかった。装飾や顔ぶれは大変英国的である。
スポンサーサイト
ディヴとマークの兄弟は、レスリングのオリンピック金メダル選手。だが、社交的で人柄もよく、周囲に期待され社会的にも認められている兄と異なり、弟のマークは口下手で人づきあいが上手くなく、そのせいでか兄の日蔭の存在として他人にも、そして自分でも思っている節がある。兄は、そんなことを気にしている素振りはまったくない。兄弟は兄弟だし、弟の受けた姪用は弟の力に因るものであると認めている。コーチとしてアドバイスをすることはもちろんあるが、それは弟の力が遺憾なく発揮されるため当然の助言であり、優越を感じてはいない。弟の内面はわからない。いまの自分の立場、周囲の自分を見る目、兄との比較に不満を感じているのか、あるいは劣等感、もしくは理不尽を、感じているのか、…物語の冒頭でそれはわからない。ただ微かに匂う。その辺りが、この映画は上手い。ベネット・ミラーは『カポーティ』の監督だが、あのときも抑えた筆致だった。しかしそれは若干判らな過ぎだ、というのが正直な僕の感想。『マネーボール』は真逆、人物が立っていた。『カポーティ』は事件を、『マネーボール』は人を、中心に描いていたという違いはあるかも。
『フォックスキャッチャー』は、『カポーティ』のときに上手く伝わってこなかった緊張、不穏な空気が、映画が始まったあたりで、もう濃密に立ち込めている。
実際に物語が動き出すのは一本の電話がかかってきてから。
それは兵器産業で財を成した大財閥デュポン社の御曹司、ジョンの代理人からだった、…。
これまで、講演やコーチやといった依頼は、必ず兄のディヴに来ていた。初めてマークは、他人から自分を指して「会いたい」といわれた。だからはじめはピンとこない。どうして対応していいかもよくわかならい。
御曹司(といってももう十分壮年のオッサンだが)のデュポンは、マークに「次のオリンピックで金を獲れ。そのための援助はする。これからはキミが、ディヴではなくキミが、真の実力者なのだと証明するんだ」と告げる。
観に行く前に知っていた映画についての情報は、お金持ちの社長がオリンピック選手を殺す、なぜか、という物語のアウトラインだけ。それ以外は知らないようにして臨んだのだが、いや、よかった。これ、それこそいま書いたような筋書だって知らないまま観ていたら、もっと「いったい何が起こるんだろう。誰が何をどうすrんだろう」とどきどきしながら観られた筈。
書いちゃったからもうお判りだと思うが、事件を起こすのはデュポンである。ただ、そのなぜ? が判らない。また、いつ? なのかも判らない。
くわえて、マークの内面が少しも判らないので、彼に感情移入がしにくい。もちろんそのせいで、マークが純粋で無垢過ぎて朴訥な「いいヤツ」なのか、劣等感に塗れて内面の澱んだ自我が肥大し、自分でも自分の秩序をコントロール出来なくなっている「悪いヤツ」なのかが判らないせいで、物語の緊張感がいや増しているんだが。
書かずにすませたかったのだが、一応書く。現実に起こった事件を題材としているので、製作者側もそこは別に仕掛けとして伏せておきたいわけでもないと思うし、…。
実は、映画が始まったあたりですっかりもう勘違いしていたのだが、僕はデュポンが弟のマ-クを殺すと思っていた。違った。マークはディヴを殺すのだ。
え? なんで? と思うでしょ。もちろん、物語が進むにつれ、デュポンが本当は手に入れたかった人材は、やっぱり兄のディヴだったということが判る。ディヴは大人の事情で「デュポンの元には来られない」といい、しかしマークが困っていることを知り、彼を救うために「大人の判断」でデュポンのところにやって来る。
ディヴの内面だけが僕らにはかろうじて判る。
しかし、くだんの二人の人間が判らない。
マークは兄に劣等感があったのか、本当は兄のようにスポットライトを浴び、人々に賞賛されたかったのか?
デュポンは、母親からのプレッシャーでひどく歪んでいる。母親を憎んでもいるが、その母親に褒められたいと熱望している。そのせいで、彼はもういい年齢なのにひどく子どもっぽい。だから、欲しいものが手に入らなかったから、殺人を犯したのか。思い通りにならない人間が許せなかったのか。彼がいったい何に惹かれ、何に価値を置き、本当はどうしたかったのかを考えると、とても面白い。人間の闇が捻じれていくといったいどんな醜い様相を表し、そして人間の秩序や関係性を重んじる精神を壊していくのか、…とても怖い。
三人の男たちの三様の思惑と、うち二人の男の負の精神が、ある一点に、終焉のポイントにむかっていく様は強烈だ。静かに、狂気は進行し、そして静かに爆発する。
デュポンを演じたスティーヴ・カレルでアカデミー助演男優賞は決まりだ! と思ってたら、あれ、カレルって主演男優賞ノミネートだったんだな、…。こんな内面のわかりにくい男がなんで主人公? という不満がないでもない。でも兄を演じたマーク・ラファロが助演男優賞なのは判る。逃したけど。主演は、弟のマークを演じたチャニング。・テイタムで、デュポンは助演だと思うんだけどなぁ、…。
演技派たちの見事なアンサンブルが見られる、という点でも、この映画、値打ちありますよ。
『フォックスキャッチャー』は、『カポーティ』のときに上手く伝わってこなかった緊張、不穏な空気が、映画が始まったあたりで、もう濃密に立ち込めている。
実際に物語が動き出すのは一本の電話がかかってきてから。
それは兵器産業で財を成した大財閥デュポン社の御曹司、ジョンの代理人からだった、…。
これまで、講演やコーチやといった依頼は、必ず兄のディヴに来ていた。初めてマークは、他人から自分を指して「会いたい」といわれた。だからはじめはピンとこない。どうして対応していいかもよくわかならい。
御曹司(といってももう十分壮年のオッサンだが)のデュポンは、マークに「次のオリンピックで金を獲れ。そのための援助はする。これからはキミが、ディヴではなくキミが、真の実力者なのだと証明するんだ」と告げる。
観に行く前に知っていた映画についての情報は、お金持ちの社長がオリンピック選手を殺す、なぜか、という物語のアウトラインだけ。それ以外は知らないようにして臨んだのだが、いや、よかった。これ、それこそいま書いたような筋書だって知らないまま観ていたら、もっと「いったい何が起こるんだろう。誰が何をどうすrんだろう」とどきどきしながら観られた筈。
書いちゃったからもうお判りだと思うが、事件を起こすのはデュポンである。ただ、そのなぜ? が判らない。また、いつ? なのかも判らない。
くわえて、マークの内面が少しも判らないので、彼に感情移入がしにくい。もちろんそのせいで、マークが純粋で無垢過ぎて朴訥な「いいヤツ」なのか、劣等感に塗れて内面の澱んだ自我が肥大し、自分でも自分の秩序をコントロール出来なくなっている「悪いヤツ」なのかが判らないせいで、物語の緊張感がいや増しているんだが。
書かずにすませたかったのだが、一応書く。現実に起こった事件を題材としているので、製作者側もそこは別に仕掛けとして伏せておきたいわけでもないと思うし、…。
実は、映画が始まったあたりですっかりもう勘違いしていたのだが、僕はデュポンが弟のマ-クを殺すと思っていた。違った。マークはディヴを殺すのだ。
え? なんで? と思うでしょ。もちろん、物語が進むにつれ、デュポンが本当は手に入れたかった人材は、やっぱり兄のディヴだったということが判る。ディヴは大人の事情で「デュポンの元には来られない」といい、しかしマークが困っていることを知り、彼を救うために「大人の判断」でデュポンのところにやって来る。
ディヴの内面だけが僕らにはかろうじて判る。
しかし、くだんの二人の人間が判らない。
マークは兄に劣等感があったのか、本当は兄のようにスポットライトを浴び、人々に賞賛されたかったのか?
デュポンは、母親からのプレッシャーでひどく歪んでいる。母親を憎んでもいるが、その母親に褒められたいと熱望している。そのせいで、彼はもういい年齢なのにひどく子どもっぽい。だから、欲しいものが手に入らなかったから、殺人を犯したのか。思い通りにならない人間が許せなかったのか。彼がいったい何に惹かれ、何に価値を置き、本当はどうしたかったのかを考えると、とても面白い。人間の闇が捻じれていくといったいどんな醜い様相を表し、そして人間の秩序や関係性を重んじる精神を壊していくのか、…とても怖い。
三人の男たちの三様の思惑と、うち二人の男の負の精神が、ある一点に、終焉のポイントにむかっていく様は強烈だ。静かに、狂気は進行し、そして静かに爆発する。
デュポンを演じたスティーヴ・カレルでアカデミー助演男優賞は決まりだ! と思ってたら、あれ、カレルって主演男優賞ノミネートだったんだな、…。こんな内面のわかりにくい男がなんで主人公? という不満がないでもない。でも兄を演じたマーク・ラファロが助演男優賞なのは判る。逃したけど。主演は、弟のマークを演じたチャニング。・テイタムで、デュポンは助演だと思うんだけどなぁ、…。
演技派たちの見事なアンサンブルが見られる、という点でも、この映画、値打ちありますよ。
中国北部の複数の街で、バラバラに切断された男性の死体が見つかる。誰が殺されたのか、…はすぐに判明するが、問題は、それだけ複数の離れた街に、どうやって犯人は死体をバラ撒くことが出来たのか?
結局その謎もはやい時点で解決する。容疑者も特定され、警察は機敏に動く。(まあ、その容疑者逮捕にむかった先で、失笑モノの失敗をやらかすのだが。…この辺りから、もしかしてこの映画って真面目なサスペンスではなく、コミカルな要素も多分に含んでいるのかしら、という疑念が抱く。ほら、中国映画とか韓国映画の一部には、シリアスもギャグもロマンスもいろいろ詰め込んで整合性はまったくないけど何か面白いのがあるやんか。アレか? と思う。笑える場面はこのあともちょこちょこ挿入される。)
その失敗のせいでかしら、主人公の刑事は職を離れる。もとより、生活が破綻している、ダメな人間であることは結構本編のはやい時点で説明されているので、この監督、なかなかスタイリッシュだがよく計算しているな、…と思う。才能ある。
それから数年後、工場のしがない警備員になっていた主人公のいまは元・刑事は、再び事件と関わるようになる。
別の殺人を追っていたかつての同僚の刑事と偶然再会し、かつてのバラバラ殺人につながる手がかりを得るのだ。その手がかり、…接点となるのは、クリーニング店でアルバイトする被害者の妻だった、美しい女。
ネットで、謎解きの部分が薄いと非難するコメントを多く見たが、この映画が描いているのは殺人の謎とかではない。
ひとつは中国の、繁栄の裏にある、あまり描かれない貧しい市井の生活。そこに住む人々の息遣い。
そしてもうひとつは、やっぱりダメな男と、だめな女のロマンスじゃないのかな。
すごくロマンティックな映画だったのだ。
監督がセンスをひけらかして、映像美に溺れている、というような評もあったが、そうでもないと思う。美しいのは風景の切り取り方だろう。小手先の、意味のないカッティングはしていない。展開の必然でカットの切り方もきちんと意味づけされていたと思うし。その辺りが、よく計算されていると思うのだが。とても落ち着いてみていられる。
そう、繰り返すが、無論僕もサスペンスを期待して劇場に足を運んだわけだが、途中で、それはどうでもよく(正直、切断死体の投棄のカラクリは本当につまらない。事件性のあるエピソードは練られている感じがしないし。監督がそこを主眼に置いていないから練っていないのだ、…と肩を持つ気はない。そこも本当であればもう一工夫はするべきだ。)、これは先に述べたようなロマンティックな人々の葛藤や、秘めた部分を味わう映画なのだな、と思った次第。
出て来る人間が全員、哀しい、ということもないし、欲望に忠実といったドラマではよくあるが現実にあまり見ない、といった類型的な人間もそれほどいない。クリーニング店の主人、刑事、クラブのママ、…といった人物たちにも味があり、そこはかとなく生活が漂う。
野外スケート場も、観覧車から見える○○○も美しかった。
惜しむらくは、別に観覧車のなかで○○なくてもよかったと思う。これはいさささか蛇足の感アリ。
最後の場面は、タイトルに上手くマッチしている。このときのある人物の表情が、なんとも切なくってそして美しくっていい。
アジア映画って結構知らず見逃してしまうことが多いが、11年に公開された韓国映画『カエル少年失踪殺人事件』のように(こちらは多分、『ゾディアック』をやりたかったんだと思うくらい、サスペンスフル。必見)とんでもない傑作があることもある。
こまめにチェックチェックして、観るべし。
こういう作品って劇場で見逃すと、レンタルで観る機会もほとんどないものな。
…といいつつ、実はこの『薄氷の殺人』、ベルリン映画祭で『グランド・ブタペスト・ホテル』(このときは審査員特別賞)を抑えてグランプリを取った作品だった。主演男優賞も。
結局その謎もはやい時点で解決する。容疑者も特定され、警察は機敏に動く。(まあ、その容疑者逮捕にむかった先で、失笑モノの失敗をやらかすのだが。…この辺りから、もしかしてこの映画って真面目なサスペンスではなく、コミカルな要素も多分に含んでいるのかしら、という疑念が抱く。ほら、中国映画とか韓国映画の一部には、シリアスもギャグもロマンスもいろいろ詰め込んで整合性はまったくないけど何か面白いのがあるやんか。アレか? と思う。笑える場面はこのあともちょこちょこ挿入される。)
その失敗のせいでかしら、主人公の刑事は職を離れる。もとより、生活が破綻している、ダメな人間であることは結構本編のはやい時点で説明されているので、この監督、なかなかスタイリッシュだがよく計算しているな、…と思う。才能ある。
それから数年後、工場のしがない警備員になっていた主人公のいまは元・刑事は、再び事件と関わるようになる。
別の殺人を追っていたかつての同僚の刑事と偶然再会し、かつてのバラバラ殺人につながる手がかりを得るのだ。その手がかり、…接点となるのは、クリーニング店でアルバイトする被害者の妻だった、美しい女。
ネットで、謎解きの部分が薄いと非難するコメントを多く見たが、この映画が描いているのは殺人の謎とかではない。
ひとつは中国の、繁栄の裏にある、あまり描かれない貧しい市井の生活。そこに住む人々の息遣い。
そしてもうひとつは、やっぱりダメな男と、だめな女のロマンスじゃないのかな。
すごくロマンティックな映画だったのだ。
監督がセンスをひけらかして、映像美に溺れている、というような評もあったが、そうでもないと思う。美しいのは風景の切り取り方だろう。小手先の、意味のないカッティングはしていない。展開の必然でカットの切り方もきちんと意味づけされていたと思うし。その辺りが、よく計算されていると思うのだが。とても落ち着いてみていられる。
そう、繰り返すが、無論僕もサスペンスを期待して劇場に足を運んだわけだが、途中で、それはどうでもよく(正直、切断死体の投棄のカラクリは本当につまらない。事件性のあるエピソードは練られている感じがしないし。監督がそこを主眼に置いていないから練っていないのだ、…と肩を持つ気はない。そこも本当であればもう一工夫はするべきだ。)、これは先に述べたようなロマンティックな人々の葛藤や、秘めた部分を味わう映画なのだな、と思った次第。
出て来る人間が全員、哀しい、ということもないし、欲望に忠実といったドラマではよくあるが現実にあまり見ない、といった類型的な人間もそれほどいない。クリーニング店の主人、刑事、クラブのママ、…といった人物たちにも味があり、そこはかとなく生活が漂う。
野外スケート場も、観覧車から見える○○○も美しかった。
惜しむらくは、別に観覧車のなかで○○なくてもよかったと思う。これはいさささか蛇足の感アリ。
最後の場面は、タイトルに上手くマッチしている。このときのある人物の表情が、なんとも切なくってそして美しくっていい。
アジア映画って結構知らず見逃してしまうことが多いが、11年に公開された韓国映画『カエル少年失踪殺人事件』のように(こちらは多分、『ゾディアック』をやりたかったんだと思うくらい、サスペンスフル。必見)とんでもない傑作があることもある。
こまめにチェックチェックして、観るべし。
こういう作品って劇場で見逃すと、レンタルで観る機会もほとんどないものな。
…といいつつ、実はこの『薄氷の殺人』、ベルリン映画祭で『グランド・ブタペスト・ホテル』(このときは審査員特別賞)を抑えてグランプリを取った作品だった。主演男優賞も。
小説であれ映画であれ、物語に入っていく視点を誰におくか、…すなわち主人公を誰にし、読者あるいは観客に、誰の立場で物語に参加してもらうか、という計算は最も重要だと思う。三島由紀夫のように、作家が神の位置から物語を睥睨し、読者もその作家と同じ神視点を共有、あたかも盤面のコマの動きを追うように、主人公をも含め人物たちのかき乱される心情や予測不可能の行動を楽しむ、…という作品もあるが、基本的に読者や観客は誰かに感情移入することで、その物語に参加する。そうして楽しむのが物語を味わう基本構造だ、と思う。
強烈にセンセーショナルな殺人とかを扱う筋書なら、まだわかる。傍観者であっても、事件の謎に惹かれて展開についていくことが可能。でも、たとえば恋愛が絡むドラマなんかだと、誰にも感情移入できなかったらひどく退屈な筈だ。
2014年最後に劇場で観たのはフィンチャーの『ゴーン・ガール』。
『セブン』(95)の印象が鮮烈すぎたフィンチャーは、「サイコな殺人に興味があるわけじゃないよ」といいつつ、『ゾディアック』(07)や『ドラゴン・タトゥーの女』(11)を撮ったりもするので、観客はどうあってもまた凄惨でショキングな物語なんだろうな、…と期待してしまう。でもどうやら本当に本人はそれほどサイコなモチーフに興味はないらしい。当の本人は、それは『セブン』でもう十分にやっちゃったんだ、と思っているのかもしれない。
『ゾディアック』はどちらかといえば、事件に翻弄される人間の堕落していく状況(まるで英国の格言、「好奇心は猫をも殺す」のように、殺人犯の提示する謎に惹かれた男たちは、身も心も生活もボロボロにしていく。)と、くわえて70年代前半のアメリカへの彼なりの懐古、という二点が、大きな作品へのモチベーションだったのではないか。後ほど述べるが、フィンチャーはこの映画で、それに加えてやりたかったこともある筈だ。
『ドラゴン・タトゥー』は、何だろう、不器用な男と不器用な女の擦れ違いを描きたかったのかな? 物語の筋立てとして、本当は『セブン』よりも陰惨な事件が背景にはあるが、ほとんどそれは映像として提示されることはなく、終始、金田一モノのような不穏だが閉じた(旧弊な)一族の雰囲気と人々の恩讐? それを嗅ぎまわる、不器用な男、…が描かれる作品。ロマンティックでもあるが、普段は007でキレッキレの洞察や動きを見せるダニエル・クレイグが、意外にダメな男を演じてそれも上手くいっている。
『ゴーン・ガール』は、ひさびさに撮られた『セブン』直系のサイコ映画だ。
20年ぶりに、サイコな狂気の人物を中心軸に配置し、その狂気から起こる行動と事件の連鎖を追う。
もちろん、最近のアメリカ事情を、きっと『セブン』よりもこの映画は反映しているのだろう。『セブン』はその設定された街自体が(これは脚本のアンドリュー・ケビン・ウォーカーの手に因るものだが)架空の街で、その分だけ普遍性に満ちている。翻って、『ゴーン・ガール』はいまのアメリカでしか成立しない設定なのでは? 扱っているテーマが「結婚」でもあるので、普遍性は無論あり、日本でも十分議論に値し、また観た人たちも考えさせられはするのだろうが、かつてアダルト・チルドレンという言葉を生み、DV先進国でもあり、長い過去や一族の伝統というものを持たぬゆえに家族というものを大切に考え、まるで一族の歴史を捏造でもするかのように写真を家中に飾り、反面、個人の自由についても強く求める国であれば、この映画の指摘する「家庭の抱える矛盾」(…がやがては崩壊するか、狂気を生むこと)に、ヴィヴィッドに反応もすれば理解もでき、そして恐れを抱くのではないかしら。日本でも、その矛盾はすでに始まりつつある、と思うのだが。この映画は、家庭についての黙示録である、ともいえる。
まず物語は、主人公が誰だかわからないまま幕を開ける。
夫のニックが朝方、家を出て、妹の経営するバーにむかう。帰宅すると部屋が荒らされ、妻のエイミーがいなくなっている。エイミーが何者かに誘拐されたのであればニックは被害者になる。もし、それがニックの偽装なのだとすれば、ニックは加害者だ。バーを経営するニックの双子の妹マーゴは、何があってもニックの味方をする、と客観的視点を保ちながら彼を助けようとする。エイミーの両親、特に母親は、エイミーをモデルにし、しかし途中からはより現実のエイミーを模範的にした形のキャラクターで本を描き、それで有名になった知性的な教養人であり有名な識者だ。エイミーは過去に何件か、つきあった恋人たちからひどい目にあわされたことがあり、その点では彼女は被虐的な可哀想な恋愛遍歴をたどってきた女性でもある。
観客はニックの視点で、失踪した妻を追う。
では主人公はニックなのだろうか。しかし、テレビに出て妻の帰還を願う彼を、マスコミや視聴者は「あやしい。妻がいなくなったときにあんな振る舞いにでるだろうか」と非難し始める。その頃には僕らも、もしかして本当はニックがエイミーを、…と思い始めている。マスコミに煽られ、騙されているのかも知れない。ニックは「そんなに感情をむき出しには出来ない。妻がいなくなったという状況を、簡単には理解出来ないんだ」という。そういわれると、そうやな、と僕らもまた思う。
こんな感じで観客はふりまわされっぱなし。
エイミーの母親は、彼女をモデルにした本で知られるようになり、娘もそれで喜んでいる、こうであるべきなのよ、と思っているが、実際には独善的で自分の尺度に何でもあてはめたがる、自分以外のことには理解を及ぼさない最低の女だ。
エイミーが過去につきあっていた恋人たちは、実はみんなそうではなかった。
ニックには若い愛人がいた。
さらに、ニックの妹は(これは最後になって明かされる衝撃の事実であったが、…ネットで見た多くのレビューのなかでも、誰jひとりとして指摘していないということは僕の勘違いなのかな? いや、そんなことはないぞ)ただ、客観的な味方であるというだけではなかった。
物語が進めば進むだけ、裏と表が表れて来る。
しかし、ニックに愛人がいたからといって、ニックは妻を殺すだろうか?
母親が、世間で思われているような良識ある人物ではなかったと知って、何か真相に近づけるだろうか?
日常の表に見えるほぼすべての事々に暗い淀んだ裏側があるのだが、それが美しいあるいは無難なメッキを剥がされ露わになったからといって、何ら真相解明には寄与して来ない。そして一気に解明されたところで、さらに物語は(いやここからが)真のダークな展開の始まりなのだ、…。
149分、文句なしに面白い。緊張感は途切れることはない。
ただ観終わったあと、爽快感があるか、とか観てよかったと思うか、と問われると、困ってしまう。
先に挙げたような、裏表があるか、あるいは表が薄っぺらいかだけの人物しか出てこないので、何とも嫌な印象が強く残る。(二人だけ例外はいるが)
CMやPV出身の監督が、「スタイリッシュな映像」を宣伝文句に続々と映画の世界へ監督としてやって来た時代があった。しかし、スタイリッシュな映像って映画に必要な要素だっけ? 何の強みにもならないことを、フィンチャー自身、判っているんだと思う。経歴を拾うと、彼もまた、多くのアメリカの映画監督同様、子供の頃から8ミリで映画を撮っている。
映画って演出だ。
デヴィッド・フィンチャー監督の大きな三つの要素として、「センセーショナルな素材・展開・映像」、「CGの使い方の巧みさ」「芝居へのこだわり・演出」があるとする。
確かに、『セブン』で、僕らは「センセーショナル」な映画を観たと思った。しかし、巷でいわれているように、あの場面であの首は実は1コマも映っていない。映っているような気がするのは、フィンチャーの切ったコンテのせいであり、フィンチャーの演出したブラッド・ピットの芝居のせいだ。モダンな色合いを選び、カットを選び、そして流れる時間をコントロールするのが監督の仕事だと原点に戻って考えてみれば、派手な映像や、CGの凄さだけでは、優れた映画は生まれず、監督として名を残すことはけっしてない。
『ソーシャル・ネットワーク』のような厄介な関係、科白の多さ、時間軸の整然としていない映画を、すっきりとわかりやすくまとめてしまうのもフィンチャーの、目立たないけれども優れた技量だ。
『ファイト・クラブ』(99)でフィンチャーはCGについて、ひととおりわかった、出来る、と思ったと僕は勝手に思っている。と同時に、これだけではダメだな、と思った気もする。
次いで、『パニック・ルーム』(02)で、狭い空間のなかで、関係性と人物の芝居に彼は挑戦してみた。演出でどこまで、観客を惹きつけられるか。CGは細部で多用されている(と思う)が、それは主役ではない。できれば、気づかれない形で使いたい。この映画は、閉じられた空間のなかで、芝居でみせる。芝居だけでみせる。
そして、その二作で得たコツのようなものを遺憾なく発揮して、大作『ゾディアック』は撮られた。ゆえに、僕はいまだに『ゾディアック』が(好き嫌いではない)、フィンチャーの最高傑作である、と思う。これ以降の映画はすべてフィンチャーが『ゾディアック』まででやってきたことの応用編だ。(『ベンジャミン・バトン』は、誰もが監督を降板するなか、じゃあオレが、…的に引き受けた挑戦だったのかも。それともそろそろ賞がほしかったのかな?)
『ゾディアック』を観たあと、次に何を撮るんだろう? と思っていたら、意外にも一般受けしそうなファンタジックな大作で驚いたが、まあそれもアリだったのかも。『ドラゴン・タトゥー』を、先に僕は『セブン』とは違うと書いたが、100歩譲ってもしきわめて近いカテゴリーだとすれば、この前作『ソーシャルネットワーク』から、フィンチャーは第2期に入っているともいえる。『ゴーンガール』の展開は『ゲーム』(97)に似ていなくもないやんか。物語が二転三転するところだけだが。仕掛けは雲泥の差だが。別に、『ドラゴン・タトゥー』の続編は撮らなくってもいいよ。ダニエル・クレイグつながりで、『スペクター』(今年度末公開)の次のボンド映画を撮る、…とかなったら狂喜するけど、いくらサム・メンデスが007を撮るようになったからといって、それはないな。
いずれにしろ、毎回何かしらのチャレンジあるいはブローアップが施され、観終わったあとに驚きと満足が得られる監督は少なくなってしまった。そのカットを見ただけで、予告編の途中で、誰が監督をしているかわかる、…なんてもうほとんどなくなってしまった。そういう意味でも、フィンチャーは特別なのだ。
強烈にセンセーショナルな殺人とかを扱う筋書なら、まだわかる。傍観者であっても、事件の謎に惹かれて展開についていくことが可能。でも、たとえば恋愛が絡むドラマなんかだと、誰にも感情移入できなかったらひどく退屈な筈だ。
2014年最後に劇場で観たのはフィンチャーの『ゴーン・ガール』。
『セブン』(95)の印象が鮮烈すぎたフィンチャーは、「サイコな殺人に興味があるわけじゃないよ」といいつつ、『ゾディアック』(07)や『ドラゴン・タトゥーの女』(11)を撮ったりもするので、観客はどうあってもまた凄惨でショキングな物語なんだろうな、…と期待してしまう。でもどうやら本当に本人はそれほどサイコなモチーフに興味はないらしい。当の本人は、それは『セブン』でもう十分にやっちゃったんだ、と思っているのかもしれない。
『ゾディアック』はどちらかといえば、事件に翻弄される人間の堕落していく状況(まるで英国の格言、「好奇心は猫をも殺す」のように、殺人犯の提示する謎に惹かれた男たちは、身も心も生活もボロボロにしていく。)と、くわえて70年代前半のアメリカへの彼なりの懐古、という二点が、大きな作品へのモチベーションだったのではないか。後ほど述べるが、フィンチャーはこの映画で、それに加えてやりたかったこともある筈だ。
『ドラゴン・タトゥー』は、何だろう、不器用な男と不器用な女の擦れ違いを描きたかったのかな? 物語の筋立てとして、本当は『セブン』よりも陰惨な事件が背景にはあるが、ほとんどそれは映像として提示されることはなく、終始、金田一モノのような不穏だが閉じた(旧弊な)一族の雰囲気と人々の恩讐? それを嗅ぎまわる、不器用な男、…が描かれる作品。ロマンティックでもあるが、普段は007でキレッキレの洞察や動きを見せるダニエル・クレイグが、意外にダメな男を演じてそれも上手くいっている。
『ゴーン・ガール』は、ひさびさに撮られた『セブン』直系のサイコ映画だ。
20年ぶりに、サイコな狂気の人物を中心軸に配置し、その狂気から起こる行動と事件の連鎖を追う。
もちろん、最近のアメリカ事情を、きっと『セブン』よりもこの映画は反映しているのだろう。『セブン』はその設定された街自体が(これは脚本のアンドリュー・ケビン・ウォーカーの手に因るものだが)架空の街で、その分だけ普遍性に満ちている。翻って、『ゴーン・ガール』はいまのアメリカでしか成立しない設定なのでは? 扱っているテーマが「結婚」でもあるので、普遍性は無論あり、日本でも十分議論に値し、また観た人たちも考えさせられはするのだろうが、かつてアダルト・チルドレンという言葉を生み、DV先進国でもあり、長い過去や一族の伝統というものを持たぬゆえに家族というものを大切に考え、まるで一族の歴史を捏造でもするかのように写真を家中に飾り、反面、個人の自由についても強く求める国であれば、この映画の指摘する「家庭の抱える矛盾」(…がやがては崩壊するか、狂気を生むこと)に、ヴィヴィッドに反応もすれば理解もでき、そして恐れを抱くのではないかしら。日本でも、その矛盾はすでに始まりつつある、と思うのだが。この映画は、家庭についての黙示録である、ともいえる。
まず物語は、主人公が誰だかわからないまま幕を開ける。
夫のニックが朝方、家を出て、妹の経営するバーにむかう。帰宅すると部屋が荒らされ、妻のエイミーがいなくなっている。エイミーが何者かに誘拐されたのであればニックは被害者になる。もし、それがニックの偽装なのだとすれば、ニックは加害者だ。バーを経営するニックの双子の妹マーゴは、何があってもニックの味方をする、と客観的視点を保ちながら彼を助けようとする。エイミーの両親、特に母親は、エイミーをモデルにし、しかし途中からはより現実のエイミーを模範的にした形のキャラクターで本を描き、それで有名になった知性的な教養人であり有名な識者だ。エイミーは過去に何件か、つきあった恋人たちからひどい目にあわされたことがあり、その点では彼女は被虐的な可哀想な恋愛遍歴をたどってきた女性でもある。
観客はニックの視点で、失踪した妻を追う。
では主人公はニックなのだろうか。しかし、テレビに出て妻の帰還を願う彼を、マスコミや視聴者は「あやしい。妻がいなくなったときにあんな振る舞いにでるだろうか」と非難し始める。その頃には僕らも、もしかして本当はニックがエイミーを、…と思い始めている。マスコミに煽られ、騙されているのかも知れない。ニックは「そんなに感情をむき出しには出来ない。妻がいなくなったという状況を、簡単には理解出来ないんだ」という。そういわれると、そうやな、と僕らもまた思う。
こんな感じで観客はふりまわされっぱなし。
エイミーの母親は、彼女をモデルにした本で知られるようになり、娘もそれで喜んでいる、こうであるべきなのよ、と思っているが、実際には独善的で自分の尺度に何でもあてはめたがる、自分以外のことには理解を及ぼさない最低の女だ。
エイミーが過去につきあっていた恋人たちは、実はみんなそうではなかった。
ニックには若い愛人がいた。
さらに、ニックの妹は(これは最後になって明かされる衝撃の事実であったが、…ネットで見た多くのレビューのなかでも、誰jひとりとして指摘していないということは僕の勘違いなのかな? いや、そんなことはないぞ)ただ、客観的な味方であるというだけではなかった。
物語が進めば進むだけ、裏と表が表れて来る。
しかし、ニックに愛人がいたからといって、ニックは妻を殺すだろうか?
母親が、世間で思われているような良識ある人物ではなかったと知って、何か真相に近づけるだろうか?
日常の表に見えるほぼすべての事々に暗い淀んだ裏側があるのだが、それが美しいあるいは無難なメッキを剥がされ露わになったからといって、何ら真相解明には寄与して来ない。そして一気に解明されたところで、さらに物語は(いやここからが)真のダークな展開の始まりなのだ、…。
149分、文句なしに面白い。緊張感は途切れることはない。
ただ観終わったあと、爽快感があるか、とか観てよかったと思うか、と問われると、困ってしまう。
先に挙げたような、裏表があるか、あるいは表が薄っぺらいかだけの人物しか出てこないので、何とも嫌な印象が強く残る。(二人だけ例外はいるが)
CMやPV出身の監督が、「スタイリッシュな映像」を宣伝文句に続々と映画の世界へ監督としてやって来た時代があった。しかし、スタイリッシュな映像って映画に必要な要素だっけ? 何の強みにもならないことを、フィンチャー自身、判っているんだと思う。経歴を拾うと、彼もまた、多くのアメリカの映画監督同様、子供の頃から8ミリで映画を撮っている。
映画って演出だ。
デヴィッド・フィンチャー監督の大きな三つの要素として、「センセーショナルな素材・展開・映像」、「CGの使い方の巧みさ」「芝居へのこだわり・演出」があるとする。
確かに、『セブン』で、僕らは「センセーショナル」な映画を観たと思った。しかし、巷でいわれているように、あの場面であの首は実は1コマも映っていない。映っているような気がするのは、フィンチャーの切ったコンテのせいであり、フィンチャーの演出したブラッド・ピットの芝居のせいだ。モダンな色合いを選び、カットを選び、そして流れる時間をコントロールするのが監督の仕事だと原点に戻って考えてみれば、派手な映像や、CGの凄さだけでは、優れた映画は生まれず、監督として名を残すことはけっしてない。
『ソーシャル・ネットワーク』のような厄介な関係、科白の多さ、時間軸の整然としていない映画を、すっきりとわかりやすくまとめてしまうのもフィンチャーの、目立たないけれども優れた技量だ。
『ファイト・クラブ』(99)でフィンチャーはCGについて、ひととおりわかった、出来る、と思ったと僕は勝手に思っている。と同時に、これだけではダメだな、と思った気もする。
次いで、『パニック・ルーム』(02)で、狭い空間のなかで、関係性と人物の芝居に彼は挑戦してみた。演出でどこまで、観客を惹きつけられるか。CGは細部で多用されている(と思う)が、それは主役ではない。できれば、気づかれない形で使いたい。この映画は、閉じられた空間のなかで、芝居でみせる。芝居だけでみせる。
そして、その二作で得たコツのようなものを遺憾なく発揮して、大作『ゾディアック』は撮られた。ゆえに、僕はいまだに『ゾディアック』が(好き嫌いではない)、フィンチャーの最高傑作である、と思う。これ以降の映画はすべてフィンチャーが『ゾディアック』まででやってきたことの応用編だ。(『ベンジャミン・バトン』は、誰もが監督を降板するなか、じゃあオレが、…的に引き受けた挑戦だったのかも。それともそろそろ賞がほしかったのかな?)
『ゾディアック』を観たあと、次に何を撮るんだろう? と思っていたら、意外にも一般受けしそうなファンタジックな大作で驚いたが、まあそれもアリだったのかも。『ドラゴン・タトゥー』を、先に僕は『セブン』とは違うと書いたが、100歩譲ってもしきわめて近いカテゴリーだとすれば、この前作『ソーシャルネットワーク』から、フィンチャーは第2期に入っているともいえる。『ゴーンガール』の展開は『ゲーム』(97)に似ていなくもないやんか。物語が二転三転するところだけだが。仕掛けは雲泥の差だが。別に、『ドラゴン・タトゥー』の続編は撮らなくってもいいよ。ダニエル・クレイグつながりで、『スペクター』(今年度末公開)の次のボンド映画を撮る、…とかなったら狂喜するけど、いくらサム・メンデスが007を撮るようになったからといって、それはないな。
いずれにしろ、毎回何かしらのチャレンジあるいはブローアップが施され、観終わったあとに驚きと満足が得られる監督は少なくなってしまった。そのカットを見ただけで、予告編の途中で、誰が監督をしているかわかる、…なんてもうほとんどなくなってしまった。そういう意味でも、フィンチャーは特別なのだ。
4作ある『エイリアン』のシリーズ中、どれが好きかと問われれば、それは『3』だろう。別にフィンチャー贔屓でいっているわけではない。
『セブン』を観るよりも前、劇場で観たそのときから、全編を覆うダークな雰囲気と、計算されたアンビヴァレンツな構成に惹かれたのだ。ニュートたちの葬儀という荘厳な「聖なる死」を司る場面の裏で、「邪悪な死の誕生」が描かれるオープニングからして、もうタダゴトではない。
ただ、今回『プロメテウス』について書こうと思い「エイリアン」についてあれこれ考えていたんだが、フィンチャーが92年に監督した『3』って、ある意味「エイリアン」の基本ラインから結構大きく逸れている。これまではジャン・ジュネ監督の『4』(97)を、基本路線を大きく逸脱した異端の新章あるいはスピンオフのように思っていたんだが。
『プロメテウス』は、いわゆる「エイリアン」の前日譚にあたる。
「なぜ、完璧な有機体であるエイリアンが生まれたのか」が作中で説明されるが、それって古い。『ノー・カントリー』(07)のアントン・シガー然り、『ダークナイト』(08)のジョカー然り、絶対悪が生まれた理由なんか解き明かさない方がいい。『ハンニンバル・ライジング』(07、但しハリスの原作は06)を観れば愚行は明らかで、僕らは、その理由や出自に同情すべき何かを見出した途端、恐れや畏怖をなくしてしまう。
ところで、なぜ『プロメテウス』は、「エイリアン」に至るまでの映画であるにも関わらず、『エイリアン5』ではなかったんだろう? 利権の問題なのか、リドリー・スコットの思惑なのか、制作権が入り乱れたシリーズをいったん終わらせ新たに映画会社が儲けるようと、リセットをかけたかったのか、…大人の事情には違いあるまい。
観終わった直後は、「これ、別に『エイリアン』にこだわる必要はなかったのでは?」と思い、「ただ、『エイリアン』とした方が企画制作はすんなり進んだんだろうな」と思いもした。
物語自体は、「エイリアン」と関係なくてもよく、しかし、セットや装飾や設定の根幹は、まるで借り物のようにきちんと「エイリアン」シリーズの世界観を踏まえて描かれている。観る者には偽物の既視感が与えられるだろう。錯覚のようでもあり、新しいヴィジュアルとしても受け止めることは出来、なんとも製作者の都合で観客を混乱させる厄介な映画ではある。
ただ、物語の骨子はシンプルで、これまでとは多少動機が違えど(シリーズでは、兵器として「エイリアン」という生物に興味がある。いわば営利的な目的として。『プロメテウス』では興味は、生命の神秘を解き明かす鍵として彼らを創造したものにむかう。些か壮大で神聖な動機ではある)、人々+アンドロイドが何かを求めて宇宙を旅し、vsエイリアン、という構造に陥る。重要なファクターとして、人間たちのエゴや葛藤もだが、アンドロイドの存在がさらに事態をややこしくする、…。これが「エイリアン」シリーズに、意図的にかそうでないのかは判らないが、仕組まれた物語の骨子だ。
フィンチャーの『3』が基本ラインを逸脱している、と感じたのは、アンドロイドの存在が欠落していることに気づいたとき。リプリーが想いを寄せる中性的な妖しい色気を漂わす男クレメンスはちょっとアンドロイドっぽいけれども。ただ、人間という存在に実は距離を置きそれでも助けるのか、あるいは蔑んだ視線で混乱に導くのか、といった判らないところから来るスリルはない。今回『プロメテウス』を見返して、いやいや、やはりこのシリーズは、アンドロイドのマージナルで揺れる存在位置こそが、物語を大きく推進させているのだと気づいた次第。まあ、だってそうだろう。この映画の主人公は、ショウ博士でも、ウェイランドでもない。マイケル・ファスベンダー演じる、デヴィッドが主人公なのだ。多分。きっと。
デヴィッドは高性能のアンドロイドで、人間たちが長い冷凍睡眠状態にある間、船を操船し、人間たちの体調を文字通り管理する。現状について高度の分析が可能、出来ないことはほぼなさそうだ。ただし希望や、「こうなればいい」といった未来への主観的な願望や推測は出来ない。嫉妬や恋慕、劣等感もない筈、…だが、ここについては曖昧だ。狡猾に立ち回りはする。生命の神秘なんかには興味がない。そりゃそうだろう、自分にはまったく関係のないことなんだから。
これまで「エイリアン」シリーズには、何人(何体か)のアンドロイドが登場している。79年の『エイリアン』には、ウェイランド・ユタニ社から指示を受け、エイリアンを地球に持ち帰るためなら乗務員の生命などどうなろうとかまわない、アッシュが。また『2』(86)では、そのアッシュとは異なり、任侠的義理を持ち合わせたビショップが。ランス・ヘリクセン演じるビショップは、「人間ではないが恐怖心はある」ともいう。
『4』になると、リプリー自身がクローンでもあり、また(これはバラすとアカンのかな)○○○が、実はアンドロイドである。
人間を裏切るモノもいれば、裏切りそうで、実は信頼に値するモノも。また、物語が佳境に入るまでアンドロイドとは判らないモノも。
『プロメテウス』においては、デヴィッドは登場の仕方からして、アンドロイドであることが明白。これまでのシリーズにおいてアンドロイドの位置づけに関する記憶がある観客は、ここで早速スリリングな緊張を味わう。きっと彼がみんなを窮地に追い込むんだろうなー、と思っていると、半分はそのとおり。しかし、半分は、…何かちょっとだけ違う、という落ち着かない気分にじきに囚われる。
(ここからネタバレ)
デヴィッドが仕えるウェイランドは、アンドロイドの彼を息子だという。しかし、彼には実の娘がいる。その娘は、父親を乗り越えようとし憎んでもいるようなのだが、それは多分愛情の裏返しなのだろう。父親はそんな娘をどうやら冷たく扱っている? 見限っている風なのだ。彼女に比べれば、パーフェクトな機械人形のデヴィッドの方が大切できっと彼好みなのだろう。面白いのは、デヴィッドも、この血の繋がらない父親へ思慕を抱いている風なのだ。そこで、はたと僕らは、「完璧なアンドロイドであるデヴィッドは、不完全で迷いや誤りを犯す人間を見下している」にも関わらず「彼が、父親という存在に尊敬の念のようなものを感じ、彼に好かれるために尽くそうとしている」という矛盾を見出す。はたしてアンドロイドは父への愛情を抱くのか?
デヴィッドはウェイランドに父親にむけて寄せる愛情など抱いてはいなかったぜ、という反論ももちろんあるだろう。僕も正直、間違いなくそうだ、と断定しきれるほどの自信はないのだが、ただ、ではなぜ彼は実の娘である○○○に対して、あれほどライバル心を燃やしたのだろう? 彼女よりも自分がウェイランドに信頼を得ていることに、彼は密かな喜びと優越を見出したのではないか?
もともとはスリラーだった『エイリアン』シリーズは、製作者たちが望むと望まないとに関わらず、いつしか生命の神秘を描く重厚で神聖な作品へと変わっていった。(母性とかもな。)
そのあたのテーマの肥大が、『エイリアン』から『プロメテウス』へとタイトルを変更しなければならなかった理由かもしれない。「エイリアン」を作り、人類を作ったより高位に位置する謎の存在、…ということで、物語をより壮大にし、市場的に新たなヒットを目論む映画屋たちの姑息な計画は判らなくもないが、しかし、そんなことしなくたって、十分ミステリアスなネタは織り込み済みなのに。
振り返ってみれば、リドリー・スコットの名を一躍有名にしたディック原作の『ブレードランナー』は、レプリカントが自身の存在を問い、創造主を殺す「父殺し」テーマの映画だった。それぞれの脚本家や原作者の思惑が、たまたま同一の監督のところに持ち込まれた、といえばそれまでだが、ひとりの監督にまつわる偶然のモチーフ、…という見方も捨てがたい。
スケールの大きな映画も悪くはないが、深い淵に降りていくような映画も観たい。『プロメテウス』の続編は作られるだろうが、ショウ博士の側で、デヴィッドはこれから何を思うんだろう? 果たして彼は何を見て、生命という彼にとっては幻に過ぎないものを、どう理解していくのだろう。人類であるショウ博士が、彼女を生み出したものに「なぜ?」を突き付けそして殺す旅についたのだとすれば、自分の父親を死なせてしまったデヴィッドほど、相応しい同行者はいるまい。
(この項、『テアトル茶屋町』より、引っ越しさせました。)
『セブン』を観るよりも前、劇場で観たそのときから、全編を覆うダークな雰囲気と、計算されたアンビヴァレンツな構成に惹かれたのだ。ニュートたちの葬儀という荘厳な「聖なる死」を司る場面の裏で、「邪悪な死の誕生」が描かれるオープニングからして、もうタダゴトではない。
ただ、今回『プロメテウス』について書こうと思い「エイリアン」についてあれこれ考えていたんだが、フィンチャーが92年に監督した『3』って、ある意味「エイリアン」の基本ラインから結構大きく逸れている。これまではジャン・ジュネ監督の『4』(97)を、基本路線を大きく逸脱した異端の新章あるいはスピンオフのように思っていたんだが。
『プロメテウス』は、いわゆる「エイリアン」の前日譚にあたる。
「なぜ、完璧な有機体であるエイリアンが生まれたのか」が作中で説明されるが、それって古い。『ノー・カントリー』(07)のアントン・シガー然り、『ダークナイト』(08)のジョカー然り、絶対悪が生まれた理由なんか解き明かさない方がいい。『ハンニンバル・ライジング』(07、但しハリスの原作は06)を観れば愚行は明らかで、僕らは、その理由や出自に同情すべき何かを見出した途端、恐れや畏怖をなくしてしまう。
ところで、なぜ『プロメテウス』は、「エイリアン」に至るまでの映画であるにも関わらず、『エイリアン5』ではなかったんだろう? 利権の問題なのか、リドリー・スコットの思惑なのか、制作権が入り乱れたシリーズをいったん終わらせ新たに映画会社が儲けるようと、リセットをかけたかったのか、…大人の事情には違いあるまい。
観終わった直後は、「これ、別に『エイリアン』にこだわる必要はなかったのでは?」と思い、「ただ、『エイリアン』とした方が企画制作はすんなり進んだんだろうな」と思いもした。
物語自体は、「エイリアン」と関係なくてもよく、しかし、セットや装飾や設定の根幹は、まるで借り物のようにきちんと「エイリアン」シリーズの世界観を踏まえて描かれている。観る者には偽物の既視感が与えられるだろう。錯覚のようでもあり、新しいヴィジュアルとしても受け止めることは出来、なんとも製作者の都合で観客を混乱させる厄介な映画ではある。
ただ、物語の骨子はシンプルで、これまでとは多少動機が違えど(シリーズでは、兵器として「エイリアン」という生物に興味がある。いわば営利的な目的として。『プロメテウス』では興味は、生命の神秘を解き明かす鍵として彼らを創造したものにむかう。些か壮大で神聖な動機ではある)、人々+アンドロイドが何かを求めて宇宙を旅し、vsエイリアン、という構造に陥る。重要なファクターとして、人間たちのエゴや葛藤もだが、アンドロイドの存在がさらに事態をややこしくする、…。これが「エイリアン」シリーズに、意図的にかそうでないのかは判らないが、仕組まれた物語の骨子だ。
フィンチャーの『3』が基本ラインを逸脱している、と感じたのは、アンドロイドの存在が欠落していることに気づいたとき。リプリーが想いを寄せる中性的な妖しい色気を漂わす男クレメンスはちょっとアンドロイドっぽいけれども。ただ、人間という存在に実は距離を置きそれでも助けるのか、あるいは蔑んだ視線で混乱に導くのか、といった判らないところから来るスリルはない。今回『プロメテウス』を見返して、いやいや、やはりこのシリーズは、アンドロイドのマージナルで揺れる存在位置こそが、物語を大きく推進させているのだと気づいた次第。まあ、だってそうだろう。この映画の主人公は、ショウ博士でも、ウェイランドでもない。マイケル・ファスベンダー演じる、デヴィッドが主人公なのだ。多分。きっと。
デヴィッドは高性能のアンドロイドで、人間たちが長い冷凍睡眠状態にある間、船を操船し、人間たちの体調を文字通り管理する。現状について高度の分析が可能、出来ないことはほぼなさそうだ。ただし希望や、「こうなればいい」といった未来への主観的な願望や推測は出来ない。嫉妬や恋慕、劣等感もない筈、…だが、ここについては曖昧だ。狡猾に立ち回りはする。生命の神秘なんかには興味がない。そりゃそうだろう、自分にはまったく関係のないことなんだから。
これまで「エイリアン」シリーズには、何人(何体か)のアンドロイドが登場している。79年の『エイリアン』には、ウェイランド・ユタニ社から指示を受け、エイリアンを地球に持ち帰るためなら乗務員の生命などどうなろうとかまわない、アッシュが。また『2』(86)では、そのアッシュとは異なり、任侠的義理を持ち合わせたビショップが。ランス・ヘリクセン演じるビショップは、「人間ではないが恐怖心はある」ともいう。
『4』になると、リプリー自身がクローンでもあり、また(これはバラすとアカンのかな)○○○が、実はアンドロイドである。
人間を裏切るモノもいれば、裏切りそうで、実は信頼に値するモノも。また、物語が佳境に入るまでアンドロイドとは判らないモノも。
『プロメテウス』においては、デヴィッドは登場の仕方からして、アンドロイドであることが明白。これまでのシリーズにおいてアンドロイドの位置づけに関する記憶がある観客は、ここで早速スリリングな緊張を味わう。きっと彼がみんなを窮地に追い込むんだろうなー、と思っていると、半分はそのとおり。しかし、半分は、…何かちょっとだけ違う、という落ち着かない気分にじきに囚われる。
(ここからネタバレ)
デヴィッドが仕えるウェイランドは、アンドロイドの彼を息子だという。しかし、彼には実の娘がいる。その娘は、父親を乗り越えようとし憎んでもいるようなのだが、それは多分愛情の裏返しなのだろう。父親はそんな娘をどうやら冷たく扱っている? 見限っている風なのだ。彼女に比べれば、パーフェクトな機械人形のデヴィッドの方が大切できっと彼好みなのだろう。面白いのは、デヴィッドも、この血の繋がらない父親へ思慕を抱いている風なのだ。そこで、はたと僕らは、「完璧なアンドロイドであるデヴィッドは、不完全で迷いや誤りを犯す人間を見下している」にも関わらず「彼が、父親という存在に尊敬の念のようなものを感じ、彼に好かれるために尽くそうとしている」という矛盾を見出す。はたしてアンドロイドは父への愛情を抱くのか?
デヴィッドはウェイランドに父親にむけて寄せる愛情など抱いてはいなかったぜ、という反論ももちろんあるだろう。僕も正直、間違いなくそうだ、と断定しきれるほどの自信はないのだが、ただ、ではなぜ彼は実の娘である○○○に対して、あれほどライバル心を燃やしたのだろう? 彼女よりも自分がウェイランドに信頼を得ていることに、彼は密かな喜びと優越を見出したのではないか?
もともとはスリラーだった『エイリアン』シリーズは、製作者たちが望むと望まないとに関わらず、いつしか生命の神秘を描く重厚で神聖な作品へと変わっていった。(母性とかもな。)
そのあたのテーマの肥大が、『エイリアン』から『プロメテウス』へとタイトルを変更しなければならなかった理由かもしれない。「エイリアン」を作り、人類を作ったより高位に位置する謎の存在、…ということで、物語をより壮大にし、市場的に新たなヒットを目論む映画屋たちの姑息な計画は判らなくもないが、しかし、そんなことしなくたって、十分ミステリアスなネタは織り込み済みなのに。
振り返ってみれば、リドリー・スコットの名を一躍有名にしたディック原作の『ブレードランナー』は、レプリカントが自身の存在を問い、創造主を殺す「父殺し」テーマの映画だった。それぞれの脚本家や原作者の思惑が、たまたま同一の監督のところに持ち込まれた、といえばそれまでだが、ひとりの監督にまつわる偶然のモチーフ、…という見方も捨てがたい。
スケールの大きな映画も悪くはないが、深い淵に降りていくような映画も観たい。『プロメテウス』の続編は作られるだろうが、ショウ博士の側で、デヴィッドはこれから何を思うんだろう? 果たして彼は何を見て、生命という彼にとっては幻に過ぎないものを、どう理解していくのだろう。人類であるショウ博士が、彼女を生み出したものに「なぜ?」を突き付けそして殺す旅についたのだとすれば、自分の父親を死なせてしまったデヴィッドほど、相応しい同行者はいるまい。
(この項、『テアトル茶屋町』より、引っ越しさせました。)