最初に聴いたのはオリジナルの音源ではなかった。高1のときだと思う。中学校から上がった仲間だけではなく、そのバンドにはSがメンバーとして名を連ねていたから。Sは高校からの外部入学生だった。
シンセサイザーやシーケンサーを揃えていた辺りがいかにも私立のお坊ちゃんたちらしいのだが、それはそれで彼らは僕から見れば十二分に不良たちだった。
当時の公立中学の不良たちがどういった自己アピールをしどういったリビドーの処理の仕方を選んでいたのか知る由もないのだけれど、彼らは煙草を咥えながら輸入版で入手した音源をコピーし、それを打ち込み、ときどきはライブハウスで演奏した。打ち込み作業という極めてスタティック(!)な作業の反動なのか、彼らのライブでギターが粉砕され(シンセが楽器で、ギターはパフォーマンスの道具、と彼らが思っていたとは思わないが)ることもあった。
「やる」と無造作に差し出されたテープ(当時はMDもまだなかった!)には5曲ほどのコピーと、5曲ほどのオリジナル曲が入っていた。どれがコピーで、どれがオリジナルなのか聞き分けることは出来なかった。あとで知ったのだが、コピーされていた曲はヒューマンリーグとBムービーと、そしてニューオーダーだった。
それがニューオーダーの曲の原体験である。
曲は「sub-culture」だった。
ニューオーダーはその前身がジョイ・ディヴィジョンというパンクバンドで、古くからのコアなロックオタクにはきっとこちらの方が評価は高い。
そのジョイ・ディヴィジョンのボーカルだったイアン・カーティスは80年、アメリカツアーの直前に謎の自殺を遂げ、バンドは崩壊。残されたメンバーはメインボーカル不在のままツアーを敢行。ギター、キーボードだったバーナード・サムナーがボーカルを取り、バンドはニューオーダーへと変化する。それは進化ではなかった。なんといえばいいんだろ。変化というのも本当は正しくないのだと思う。ジョイ・デイヴィジョンではなくなってしまった、というのが正しいんだろうか。
僕は、ジョイ・ディヴィジョンを聴いていない。思い入れはほとんどない。後に法月綸太郎が強烈なジョイ・デイヴィジョン信者だと知ったときでさえも、別に心を動かされることはなかった。
自殺とか、ドラッグとかいった伝説めいた装飾はロックに不要だと思っているのだ。(もちろん、法月氏も、その死の醸し出す空気にだけ魅了されているわけではないだろう)
僕はイアンの伝説に興味があるわけでも、そのダークでパンキッシュな音に惹かれるわけでもない。
ただ、高1のときに手渡されたテープに入っていた、あの無機質な音に、無表情に刻まれるベースやそのくせセンチメンタルなメロディに魅了されたのだ。
コピーされたニューオーダーを聞き、次に(そして本物を最初に)聴いたのは彼らにとって3枚目のフルアルバム『ロゥ・ライフ』だった。
ニューオーダーのアルバムに歌詞カードはついていなかった。
初めて僕らが歌詞を、唄われている意味を知るのは後にベスト・オブ・ニューオーダーが発売されるとき。
オリジナルアルバムは8枚あるのかな?
その3枚目の『ロゥ・ライフ』が結局いまでもベストだと思う。
高校生の頃、僕にとってのロックスターはデペッシュモードであり、キュアーであり、そしてニューオーダーだった。大学生になってKと出会い、彼から僕はペットショップボーイズを教えてもらう。僕は彼にデペッシュとキュアーとニューオーダーを教えた。Kの部屋で、真夜中、爆音で僕らは彼らのアルバムを聴いた。
「デペッシュって夜にしか聴けないんだよね。ニューオーダとPSBは朝って感じがしない」
とKはいった。
大学在籍中にニューオーダーは5枚目のアルバム『テクニーク』をリリースしてるんだけど、たいして盛り上がらなかったような覚えが、……。(デペッシュの『ヴァイオレーター』は一年以上ヘビーローティションだったのに)
当時、僕はニューオーダーよりもデペッシュモードへの傾倒が顕著だった。
「キミはゴージャスな感じが好きだな」とKにいわれたこともある。僕がいちばん好きだったPSBのアルバムが『ビヘイヴァー』だったこともあっての指摘だった。
Kは、教えた僕よりもニューオーダーが気に入りだったらしく、
「何がいいってあのヘタクソさがセツナクっていんだよ」
ともKはいった。
名前も住所もなにもかも
これまで知っていた人たちのいろんなことを
どうやら僕は忘れてしまったらしい
でもかまうもんか
明日になればまたどうにかなるさ
それは子どもたちが試験の前に
なにもかも置き去りにして逃げ出すみたいな感じなんだから
僕だけの場所だといえる
そんなところを求めていたんだ
電話で気ままに話すことが出来たり
一日の初めに快調に目覚めたり出来る
そんな場所だよ
傷んだ心の告白なんかをしたいわけではないんだ
ただちょっと困っていた
ほとんどの時間 キミは僕にとっては見知らぬ人だったから
でもいまは
いまのキミは僕のものなんだ
好きな曲を何曲か選べといわれれば、もちろん前出の『ロゥ・ライフ』から、「The Perfect Kiss」「Sooner than you think」。最愛の曲である「crystal」、それから「REGRET」。
先のは、ベスト・オブで知った「REGRET」の歌詞。誤訳? うん、でもいいじゃん。
そのニューオーダーが遂に解散するらしい。なんで!? と思うのは、あらかじめ壊れていたものがまた壊れる不思議についての驚きなんだろうな。いや、ここ数年、若いバンドからのリスペクトはスゴかったのにな。残念。
そして、その前身であり常に亡霊として憑き纏っていたジョイ・デイヴィジョンの映画、イアンの伝記映画っぽい仕上がりなのだろうか、ポール・スミスとのコラボレーションでも話題の映画『コントロール』は大阪・京都でいよいよ12日から公開。
シンセサイザーやシーケンサーを揃えていた辺りがいかにも私立のお坊ちゃんたちらしいのだが、それはそれで彼らは僕から見れば十二分に不良たちだった。
当時の公立中学の不良たちがどういった自己アピールをしどういったリビドーの処理の仕方を選んでいたのか知る由もないのだけれど、彼らは煙草を咥えながら輸入版で入手した音源をコピーし、それを打ち込み、ときどきはライブハウスで演奏した。打ち込み作業という極めてスタティック(!)な作業の反動なのか、彼らのライブでギターが粉砕され(シンセが楽器で、ギターはパフォーマンスの道具、と彼らが思っていたとは思わないが)ることもあった。
「やる」と無造作に差し出されたテープ(当時はMDもまだなかった!)には5曲ほどのコピーと、5曲ほどのオリジナル曲が入っていた。どれがコピーで、どれがオリジナルなのか聞き分けることは出来なかった。あとで知ったのだが、コピーされていた曲はヒューマンリーグとBムービーと、そしてニューオーダーだった。
それがニューオーダーの曲の原体験である。
曲は「sub-culture」だった。
ニューオーダーはその前身がジョイ・ディヴィジョンというパンクバンドで、古くからのコアなロックオタクにはきっとこちらの方が評価は高い。
そのジョイ・ディヴィジョンのボーカルだったイアン・カーティスは80年、アメリカツアーの直前に謎の自殺を遂げ、バンドは崩壊。残されたメンバーはメインボーカル不在のままツアーを敢行。ギター、キーボードだったバーナード・サムナーがボーカルを取り、バンドはニューオーダーへと変化する。それは進化ではなかった。なんといえばいいんだろ。変化というのも本当は正しくないのだと思う。ジョイ・デイヴィジョンではなくなってしまった、というのが正しいんだろうか。
僕は、ジョイ・ディヴィジョンを聴いていない。思い入れはほとんどない。後に法月綸太郎が強烈なジョイ・デイヴィジョン信者だと知ったときでさえも、別に心を動かされることはなかった。
自殺とか、ドラッグとかいった伝説めいた装飾はロックに不要だと思っているのだ。(もちろん、法月氏も、その死の醸し出す空気にだけ魅了されているわけではないだろう)
僕はイアンの伝説に興味があるわけでも、そのダークでパンキッシュな音に惹かれるわけでもない。
ただ、高1のときに手渡されたテープに入っていた、あの無機質な音に、無表情に刻まれるベースやそのくせセンチメンタルなメロディに魅了されたのだ。
コピーされたニューオーダーを聞き、次に(そして本物を最初に)聴いたのは彼らにとって3枚目のフルアルバム『ロゥ・ライフ』だった。
ニューオーダーのアルバムに歌詞カードはついていなかった。
初めて僕らが歌詞を、唄われている意味を知るのは後にベスト・オブ・ニューオーダーが発売されるとき。
オリジナルアルバムは8枚あるのかな?
その3枚目の『ロゥ・ライフ』が結局いまでもベストだと思う。
高校生の頃、僕にとってのロックスターはデペッシュモードであり、キュアーであり、そしてニューオーダーだった。大学生になってKと出会い、彼から僕はペットショップボーイズを教えてもらう。僕は彼にデペッシュとキュアーとニューオーダーを教えた。Kの部屋で、真夜中、爆音で僕らは彼らのアルバムを聴いた。
「デペッシュって夜にしか聴けないんだよね。ニューオーダとPSBは朝って感じがしない」
とKはいった。
大学在籍中にニューオーダーは5枚目のアルバム『テクニーク』をリリースしてるんだけど、たいして盛り上がらなかったような覚えが、……。(デペッシュの『ヴァイオレーター』は一年以上ヘビーローティションだったのに)
当時、僕はニューオーダーよりもデペッシュモードへの傾倒が顕著だった。
「キミはゴージャスな感じが好きだな」とKにいわれたこともある。僕がいちばん好きだったPSBのアルバムが『ビヘイヴァー』だったこともあっての指摘だった。
Kは、教えた僕よりもニューオーダーが気に入りだったらしく、
「何がいいってあのヘタクソさがセツナクっていんだよ」
ともKはいった。
名前も住所もなにもかも
これまで知っていた人たちのいろんなことを
どうやら僕は忘れてしまったらしい
でもかまうもんか
明日になればまたどうにかなるさ
それは子どもたちが試験の前に
なにもかも置き去りにして逃げ出すみたいな感じなんだから
僕だけの場所だといえる
そんなところを求めていたんだ
電話で気ままに話すことが出来たり
一日の初めに快調に目覚めたり出来る
そんな場所だよ
傷んだ心の告白なんかをしたいわけではないんだ
ただちょっと困っていた
ほとんどの時間 キミは僕にとっては見知らぬ人だったから
でもいまは
いまのキミは僕のものなんだ
好きな曲を何曲か選べといわれれば、もちろん前出の『ロゥ・ライフ』から、「The Perfect Kiss」「Sooner than you think」。最愛の曲である「crystal」、それから「REGRET」。
先のは、ベスト・オブで知った「REGRET」の歌詞。誤訳? うん、でもいいじゃん。
そのニューオーダーが遂に解散するらしい。なんで!? と思うのは、あらかじめ壊れていたものがまた壊れる不思議についての驚きなんだろうな。いや、ここ数年、若いバンドからのリスペクトはスゴかったのにな。残念。
そして、その前身であり常に亡霊として憑き纏っていたジョイ・デイヴィジョンの映画、イアンの伝記映画っぽい仕上がりなのだろうか、ポール・スミスとのコラボレーションでも話題の映画『コントロール』は大阪・京都でいよいよ12日から公開。
なかなか緊張する? 僕よりも相手が、か、というような予定があったので、この日はやや早起きして実家のある街へとむかう。
この日、恋人を親に合わせる。変な感じなんだが、中距離恋愛の恋人と僕の親とは同じ街に住んでいる。僕だけが遠方にいる形。それまでの数年間はぜんぜん帰らなかったところなんだが、ここ最近はたまにこっそり帰っている。たいていは彼女の方が出てきてくれるんだけれども。
4人で会う。待ち合わせの場所に来た父親は、スーツだった。そのことに感謝した。
実は結構、あれこれの経緯があって、ファザコンだった僕と父親とは最近あまり折り合いがよろしくない。原因は父親がシャイなところにあるのではないか、と勝手に思っている。
何かと話したり、訊ねたりしたいことがあって、話す機会を作ろうとこの一年くらい僕の方からしていた。彼女とのこともそうだが、それ以外のこともあって。ファザコンゆえに父親のことが、先達が何を考えているのか知りたいのだ。まあ、いままでにもあちこちでそういったことを書いては来たんだが、最近は遂に行動に出た形。自分が社会人として結構な年齢になったこともある。もうひとつ、いつ何時、父親にもしものことがあるかも知れない、という判断もちょっとある。
ところが、こちらから能動的に時間を作るようにしているにも関わらず、父親がその時間を避けるのだ。いや、避ける、とはっきりはいい難い。機会を無にすることが、何度か続いた。それで「息子と話す気がないのは、話す価値がないと父親なりに判断しているからだな」と僕がキレた形。なんか飽きられた女のようなことをいっているな、と思わないでもないのだが。なんとなく情けない。しかし、父親は世界に一人だけだしな。
まあ、そんなんで会話不足をコトあるごとに非難することが多かったのだ。最近は。
そんななかでの彼女サマの紹介。…緊張、というより心配が、僕の方にはあったのだ。
父親がスーツで現れたのは正直、意外だった。
「スーツじゃん」と僕がいうと、「お前の大事な人に初めて会うんだからな」との返事。ああ、そういう人だった、と思い、少し不明と勝手を気持ちだけで詫びた。
会見は2時間ほど。質問は突っ込んだものはなく想定内。彼女がテキパキ答えているのが面白かった。「うちの親、気難しいからな」と散々プレッシャーをかけていたのは僕なんだが。その流暢さに彼女のした仮想の練習を思い、感謝も感動もしつつも、くすくす笑いがもれそうだった。
あとで、「お仕事できそうなお嬢さんね」と母親がいっていた。
仕事が出来そうな女性が好きなのだ、と気づいたのは結構、最近。若いときはそういう女性ってヤリ手そうで手ごわそうで苦手だな、…と思っていたんだけれども、いつしか、本命に選んでいるのはそういう人。
仕事が出来そうでキレ者っぽくて、かつ可愛くってエロかったらいうことない(そりゃ、いうことないやろ、とみんな思っている筈)。そのアンビヴァレンツな感じがとてもいい。
聡明である、というのは人に選ばれる際の最大の条件だと思う。ときには、聡明でないフリも出来る聡明さというのが社会ではとても貴重だと思う。力のない連中に限って自己アピールしようとすぐに尖るからな。余裕のない人間は、すぐに他人のことをあれこれいう。そういうのはダメである。
そのあと、大阪に戻る。『エリザベス ゴールデンエイジ』を観ようと約束していたのだが、ちょうど合う時間がこちらにしかなかったので。
チケットを買って半時間ほど余裕があったので、阪急MENS館のなかを二人であれこれ見ながら歩く。
買う予定は、何もない。…なかった筈なんだけれど、NICOLの店で、マネキンが着ていたデニムのジャケット? ジージャン? に惹かれる。オイルコーティングだっけ? 普通のデニム生地にコーティングが施されていて、テクスチャがとても変わっている。
ああ、これって以前にタブロイド・ニュースで見た(そしてバーゲンで買い逃した)ワックス加工のジーンズのパンツに似ている。
あれこれ店員のお兄さんに訊ねながらも袖は通さずじまい。通したら買ってしまいそうだったので。
いいね、といって買わずに済まし、結局あとから欲しくなって、でももう手遅れで手に入らない、…ものを僕と彼女とはいつからか『タブロイド・ニュースのパンツ』と呼ぶようになっている。
そのNICOLの(RIELABOの)ジージャンもそうなるんだろうか。
そのあと、DKNYのジャケットを見て、他にもあれこれ見る。一枚も試着しないで済ます。そんなことって珍しい。
『エリザベス ゴールデンエイジ』は、…早起きが祟ったのか、実は爆睡。え? 映画ファンの風上にも置けないって? うん、…たまに瞼を開くととても魅力的な場面が繰り広げられていたんだけれども。こんなに眠ってしまったのはひさしぶり、いや初めて。むちゃむちゃ心地よく眠ってしまった。1800円払って。
終わってから普段なら彼女とあれこれ観たばかりの映画の話をするのに、この日は、すまん、一言も触れることなく(出来ず)に終わった。ああ、…。
この日、恋人を親に合わせる。変な感じなんだが、中距離恋愛の恋人と僕の親とは同じ街に住んでいる。僕だけが遠方にいる形。それまでの数年間はぜんぜん帰らなかったところなんだが、ここ最近はたまにこっそり帰っている。たいていは彼女の方が出てきてくれるんだけれども。
4人で会う。待ち合わせの場所に来た父親は、スーツだった。そのことに感謝した。
実は結構、あれこれの経緯があって、ファザコンだった僕と父親とは最近あまり折り合いがよろしくない。原因は父親がシャイなところにあるのではないか、と勝手に思っている。
何かと話したり、訊ねたりしたいことがあって、話す機会を作ろうとこの一年くらい僕の方からしていた。彼女とのこともそうだが、それ以外のこともあって。ファザコンゆえに父親のことが、先達が何を考えているのか知りたいのだ。まあ、いままでにもあちこちでそういったことを書いては来たんだが、最近は遂に行動に出た形。自分が社会人として結構な年齢になったこともある。もうひとつ、いつ何時、父親にもしものことがあるかも知れない、という判断もちょっとある。
ところが、こちらから能動的に時間を作るようにしているにも関わらず、父親がその時間を避けるのだ。いや、避ける、とはっきりはいい難い。機会を無にすることが、何度か続いた。それで「息子と話す気がないのは、話す価値がないと父親なりに判断しているからだな」と僕がキレた形。なんか飽きられた女のようなことをいっているな、と思わないでもないのだが。なんとなく情けない。しかし、父親は世界に一人だけだしな。
まあ、そんなんで会話不足をコトあるごとに非難することが多かったのだ。最近は。
そんななかでの彼女サマの紹介。…緊張、というより心配が、僕の方にはあったのだ。
父親がスーツで現れたのは正直、意外だった。
「スーツじゃん」と僕がいうと、「お前の大事な人に初めて会うんだからな」との返事。ああ、そういう人だった、と思い、少し不明と勝手を気持ちだけで詫びた。
会見は2時間ほど。質問は突っ込んだものはなく想定内。彼女がテキパキ答えているのが面白かった。「うちの親、気難しいからな」と散々プレッシャーをかけていたのは僕なんだが。その流暢さに彼女のした仮想の練習を思い、感謝も感動もしつつも、くすくす笑いがもれそうだった。
あとで、「お仕事できそうなお嬢さんね」と母親がいっていた。
仕事が出来そうな女性が好きなのだ、と気づいたのは結構、最近。若いときはそういう女性ってヤリ手そうで手ごわそうで苦手だな、…と思っていたんだけれども、いつしか、本命に選んでいるのはそういう人。
仕事が出来そうでキレ者っぽくて、かつ可愛くってエロかったらいうことない(そりゃ、いうことないやろ、とみんな思っている筈)。そのアンビヴァレンツな感じがとてもいい。
聡明である、というのは人に選ばれる際の最大の条件だと思う。ときには、聡明でないフリも出来る聡明さというのが社会ではとても貴重だと思う。力のない連中に限って自己アピールしようとすぐに尖るからな。余裕のない人間は、すぐに他人のことをあれこれいう。そういうのはダメである。
そのあと、大阪に戻る。『エリザベス ゴールデンエイジ』を観ようと約束していたのだが、ちょうど合う時間がこちらにしかなかったので。
チケットを買って半時間ほど余裕があったので、阪急MENS館のなかを二人であれこれ見ながら歩く。
買う予定は、何もない。…なかった筈なんだけれど、NICOLの店で、マネキンが着ていたデニムのジャケット? ジージャン? に惹かれる。オイルコーティングだっけ? 普通のデニム生地にコーティングが施されていて、テクスチャがとても変わっている。
ああ、これって以前にタブロイド・ニュースで見た(そしてバーゲンで買い逃した)ワックス加工のジーンズのパンツに似ている。
あれこれ店員のお兄さんに訊ねながらも袖は通さずじまい。通したら買ってしまいそうだったので。
いいね、といって買わずに済まし、結局あとから欲しくなって、でももう手遅れで手に入らない、…ものを僕と彼女とはいつからか『タブロイド・ニュースのパンツ』と呼ぶようになっている。
そのNICOLの(RIELABOの)ジージャンもそうなるんだろうか。
そのあと、DKNYのジャケットを見て、他にもあれこれ見る。一枚も試着しないで済ます。そんなことって珍しい。
『エリザベス ゴールデンエイジ』は、…早起きが祟ったのか、実は爆睡。え? 映画ファンの風上にも置けないって? うん、…たまに瞼を開くととても魅力的な場面が繰り広げられていたんだけれども。こんなに眠ってしまったのはひさしぶり、いや初めて。むちゃむちゃ心地よく眠ってしまった。1800円払って。
終わってから普段なら彼女とあれこれ観たばかりの映画の話をするのに、この日は、すまん、一言も触れることなく(出来ず)に終わった。ああ、…。
その日は2月の最後の休日だったんだけれども、夜になってから、うちの会社のなかでもやや遠方にあたる教室へ僕はむかった。7時? くらいに部屋を出て、9時頃にその教室に着く。そんなスケジュールで。
目的はある上司に会うこと、ただそれだけ。
好きな上司も同僚もたくさん、この会社にはいる。
「授業上手いなー」と舌を巻く相手はそれほどでもないが、それは僕が過剰に自分の教務に自信を持っているからなので、全体としてスキルを欠くというわけではけっしてない。
純粋にスゴい上司となると、それは少ない。これにも僕の主観が入るからで、まあ、個人的な憧れの度合いが基準に介入してくるから。理想、か。僕なりの理想を体現している、というような意味になるんで、客観的に見ればけっして少なくはないと思う。
スゴいな、と思う上司が二人いる。一人は所属する課の直接のトップだが、これは「やるなっ」というよりは「よく、やるなー」といったやや消極的な印象に近い。こんなに不利で矛盾した状況をよく一人で支えてるな、あんた、…といった呆れながらの感心。真似したくはない。理想というのとはちょっと違う。僕には到底無理なことを笑顔でこなすその力にただただ頭が下がる思いなのだ。
もう一人は、本物の理想。僕らが思うより一歩どころではないほど先を読み、そしてそれを実践していく。その行動力と手際と読みの鋭さがまず素晴らしいのだが、それにくわえ、きちんと整合性が取れていて、なおかつ無駄がまったくないという人。
あれこれ書き連ねていくとキリがないのだが、鞄を変えたその日に、「カッコいい鞄やな」と声をかけてくれたり、僕の恋人がどうやら社内にいるらしい、…とウワサを聞いたときに(僕が報告に上がるより先に)嬉しそうに調べたりもする反面、いざプランを進めるとなると、要求する資料からこちらへの質問から、遠慮とか上下だからという気遣いだとかを一切不要にし、目的だけを本当にフィジカルに追おうとする。矛盾も無駄もない。いいわけは通用しない。そんな人だ。
その上司がyesだといえば、僕もそれに倣う。迷ったら、その人ならどう判断するかと考える。
その日、その教室にその上司が入っていて、それが最後の日なのだった。3月からの時間割の改正で、その上司がそこを離れる。
以前に一度、「○○部長、水曜日に△△に入られてるんですよね」「入ってるよ」という会話を交わしたことがある。そのとき、じゃあ行きますよ、顔を出しに、と直接いったわけではない。
ただ、その両方に入っている教員に「一回、行くわ。様子も探りたいが、…部長にも会いたいし」と僕がいったら、その彼女が部長にそのことをいってしまったのだ。別に本当に行くつもりだったからいいんだけど。「部長、『来るんか』って嬉しそうにいったはりましたよ」と後日、聞いた。遊びに行っていい場所ではないし、もちろん、僕も立場上、新しいその教室の様子を探っておきたいし、・・・と目的もあったのだが、嬉しそうに、と聞いて悪い気はしなかった。
それが結局、何やかやと先延ばしになっていて、それがとうとう時間割の変更で最後の一日、ラストチャンスになったのだ。
夕方まで、あれこれ用事が入ったりもしてちょっと迷っていた。行くべきかどうか、行かずに済ませた方がいい作業も(休みなんだけど)あるんじゃないか、とか。
それでも結局、どうにか終わらせ、僕はその教室へむかった。
行きますよ、という話が伝わっていたのはもうずいぶん前のことだ。
駅で降りると細かい雪片が激しく吹雪いていた。ショッピングモールの駐車場に、聳える巨大な看板の灯りを反射して輝く雪が吹きすさぶ光景は、凍えそうに美しかった。
いま見ている夜のこの場面を、僕は長い間忘れないだろう、と思った。ファー付きのコートの襟を立て、駐車場を横切り、教室に入って行った。
部長は、教務室の机に座り、休んでいる生徒に電話をかけているところ(らしか)った。
電話を切ると、「今日は?」と訊ねられた。
「来る、っていいましたんで。今日、来ないとウソついたことになってしまいますから」
と僕は冗談めかしていった。部長相手にウソつきたくなかったんで、というのは本当だ。
多分、本当はあれこれ迷っていたんだと思う。だから自分はここへ来たのだ。部長に会えば何かが自分のなかでちゃんと決着をつけるだろう、…ああ、そう思って自分はこの教室に来たんだな、とそのときは思っていた。顔を見るなり、何かふっきれていた。やろうかどうしようか躊躇していたことが多分、あったのだ。それに踏み込む? いや、踏み込んではもういるのだけれど、それでよかったかどうかを、僕は判断したかったのだ。多分。
と同時に、部長に対して一度口にしたことを、たとえ直接言ってないにしても(それを忘れられていたとしても)履行せずに済ますなんてことは出来なかった。その人は、言ったことは必ずやる人なのだ。自分がその人に憧れている、その人になりたいと思うなら、同じように、せめて出来る限りのことは同じようにするべきだろう? もし、行かないで済ましてしまうと、多分、この会社にいる限り、僕は部長に対してウソをついてしまったと、ずっと思い続けてしまう。
この塾に来て最初にレギュラーで入った教室が、部長が当時、教室長をやっていらした教室だった。「厳しいところだ」とみんなが噂していた。その教室につごう2年? 毎日、入っていた。叱られたことが一度、褒められたことはいっぱいある。その褒められたところの多くは、部長(当時、教室長)の知らないところで起こっていた出来事で、ご存知ないとこちらが思っていたことだった。よく見てるなー、と本当に驚かされた。上の盤面にいる者は細かなところまで見渡しておかないとならない、というのはそのとき学んだことだ。それは気持ちの些細なところまでも。
その教室を離れて僕が別に教室に移ると決まったとき、「寂しくなるな」といってくださった。別に会社を辞めるわけでもなく、会議で顔を合わせることも相変わらずあるのに。日常で顔を合わせなくなる、一緒に帰る機会が失われる、それだけでそういわれたことは密かに僕の誇りになっている。
「キミはいつも爽やかに教室に入ってくるな」といわれたこともある。
実は、それは密かに意識していたことだった。ずいぶん前に勤めていた教室で、生徒から貰った手紙に書かれていたのだ。「先生は、いつも爽やかに挨拶しながら入って来るよね」と。それ以来、他人の入室の態度が気になるようになった。仕事が出来て余裕がある人ほど、挨拶をきちんとしている。そうなりたくて、まずそこから真似していたようなものだ。
もちろん、その部長も、とてもはきはきと挨拶しながら入ってくる。入ってくる人に、自分から挨拶の声をかける。
仕事って何だろ。好きでしている人なんて本当に限られているんだろう。消極的な選択で就いた仕事に、ほぼ一生従事する。ただ賃金を得るためだけでは、続けることは出来ない。無論、賃金が得られなければ、それは仕事として成立しない。
もう2年ほど前になるんだが、ある大事があった際に、体を張って守ってもらったことがある。ああ、そういえばそのときも、その事後に「隙があるんだ」と叱られた。つごう2度だ。そして最近では僕が、仲間に「隙があるんじゃないか」というようになった。
仕事であっても、そうでなくても、スキルアップ出来る人と出来ない人とがいるのだと思う。出来ないヤツは、自分の力がないゆえ、他人を貶め自分に並ばせたり自分の下に置こうとしたりする、あるいは他人の力を盗もうともする。卑劣でカスみたいなヤツは、現実にいる。多分、そういった劣等感に塗れた連中の人生なんて、屈辱とどす黒い不満とに染まっていてさぞかしつまらないことだろう。
何であれ、ジャンプすることだ、と思わせてくれる人の側にいられることは幸せである。そのためには、どこまでジャンプしたいか、自分で目的地を想定しなければならない。それが高い方が、人はスキルを磨こうとするだろう。正当な方法で。そうして、目的地に届き、また次の目的地を想定し、研鑽し、ジャンプし、また届き、…していくなかで、僕らはきっと仕事に対して、結構面白いな、と思うことも出来るようになる筈。
仕事が出来る人ってめちゃめちゃカッコいいのな。
目的はある上司に会うこと、ただそれだけ。
好きな上司も同僚もたくさん、この会社にはいる。
「授業上手いなー」と舌を巻く相手はそれほどでもないが、それは僕が過剰に自分の教務に自信を持っているからなので、全体としてスキルを欠くというわけではけっしてない。
純粋にスゴい上司となると、それは少ない。これにも僕の主観が入るからで、まあ、個人的な憧れの度合いが基準に介入してくるから。理想、か。僕なりの理想を体現している、というような意味になるんで、客観的に見ればけっして少なくはないと思う。
スゴいな、と思う上司が二人いる。一人は所属する課の直接のトップだが、これは「やるなっ」というよりは「よく、やるなー」といったやや消極的な印象に近い。こんなに不利で矛盾した状況をよく一人で支えてるな、あんた、…といった呆れながらの感心。真似したくはない。理想というのとはちょっと違う。僕には到底無理なことを笑顔でこなすその力にただただ頭が下がる思いなのだ。
もう一人は、本物の理想。僕らが思うより一歩どころではないほど先を読み、そしてそれを実践していく。その行動力と手際と読みの鋭さがまず素晴らしいのだが、それにくわえ、きちんと整合性が取れていて、なおかつ無駄がまったくないという人。
あれこれ書き連ねていくとキリがないのだが、鞄を変えたその日に、「カッコいい鞄やな」と声をかけてくれたり、僕の恋人がどうやら社内にいるらしい、…とウワサを聞いたときに(僕が報告に上がるより先に)嬉しそうに調べたりもする反面、いざプランを進めるとなると、要求する資料からこちらへの質問から、遠慮とか上下だからという気遣いだとかを一切不要にし、目的だけを本当にフィジカルに追おうとする。矛盾も無駄もない。いいわけは通用しない。そんな人だ。
その上司がyesだといえば、僕もそれに倣う。迷ったら、その人ならどう判断するかと考える。
その日、その教室にその上司が入っていて、それが最後の日なのだった。3月からの時間割の改正で、その上司がそこを離れる。
以前に一度、「○○部長、水曜日に△△に入られてるんですよね」「入ってるよ」という会話を交わしたことがある。そのとき、じゃあ行きますよ、顔を出しに、と直接いったわけではない。
ただ、その両方に入っている教員に「一回、行くわ。様子も探りたいが、…部長にも会いたいし」と僕がいったら、その彼女が部長にそのことをいってしまったのだ。別に本当に行くつもりだったからいいんだけど。「部長、『来るんか』って嬉しそうにいったはりましたよ」と後日、聞いた。遊びに行っていい場所ではないし、もちろん、僕も立場上、新しいその教室の様子を探っておきたいし、・・・と目的もあったのだが、嬉しそうに、と聞いて悪い気はしなかった。
それが結局、何やかやと先延ばしになっていて、それがとうとう時間割の変更で最後の一日、ラストチャンスになったのだ。
夕方まで、あれこれ用事が入ったりもしてちょっと迷っていた。行くべきかどうか、行かずに済ませた方がいい作業も(休みなんだけど)あるんじゃないか、とか。
それでも結局、どうにか終わらせ、僕はその教室へむかった。
行きますよ、という話が伝わっていたのはもうずいぶん前のことだ。
駅で降りると細かい雪片が激しく吹雪いていた。ショッピングモールの駐車場に、聳える巨大な看板の灯りを反射して輝く雪が吹きすさぶ光景は、凍えそうに美しかった。
いま見ている夜のこの場面を、僕は長い間忘れないだろう、と思った。ファー付きのコートの襟を立て、駐車場を横切り、教室に入って行った。
部長は、教務室の机に座り、休んでいる生徒に電話をかけているところ(らしか)った。
電話を切ると、「今日は?」と訊ねられた。
「来る、っていいましたんで。今日、来ないとウソついたことになってしまいますから」
と僕は冗談めかしていった。部長相手にウソつきたくなかったんで、というのは本当だ。
多分、本当はあれこれ迷っていたんだと思う。だから自分はここへ来たのだ。部長に会えば何かが自分のなかでちゃんと決着をつけるだろう、…ああ、そう思って自分はこの教室に来たんだな、とそのときは思っていた。顔を見るなり、何かふっきれていた。やろうかどうしようか躊躇していたことが多分、あったのだ。それに踏み込む? いや、踏み込んではもういるのだけれど、それでよかったかどうかを、僕は判断したかったのだ。多分。
と同時に、部長に対して一度口にしたことを、たとえ直接言ってないにしても(それを忘れられていたとしても)履行せずに済ますなんてことは出来なかった。その人は、言ったことは必ずやる人なのだ。自分がその人に憧れている、その人になりたいと思うなら、同じように、せめて出来る限りのことは同じようにするべきだろう? もし、行かないで済ましてしまうと、多分、この会社にいる限り、僕は部長に対してウソをついてしまったと、ずっと思い続けてしまう。
この塾に来て最初にレギュラーで入った教室が、部長が当時、教室長をやっていらした教室だった。「厳しいところだ」とみんなが噂していた。その教室につごう2年? 毎日、入っていた。叱られたことが一度、褒められたことはいっぱいある。その褒められたところの多くは、部長(当時、教室長)の知らないところで起こっていた出来事で、ご存知ないとこちらが思っていたことだった。よく見てるなー、と本当に驚かされた。上の盤面にいる者は細かなところまで見渡しておかないとならない、というのはそのとき学んだことだ。それは気持ちの些細なところまでも。
その教室を離れて僕が別に教室に移ると決まったとき、「寂しくなるな」といってくださった。別に会社を辞めるわけでもなく、会議で顔を合わせることも相変わらずあるのに。日常で顔を合わせなくなる、一緒に帰る機会が失われる、それだけでそういわれたことは密かに僕の誇りになっている。
「キミはいつも爽やかに教室に入ってくるな」といわれたこともある。
実は、それは密かに意識していたことだった。ずいぶん前に勤めていた教室で、生徒から貰った手紙に書かれていたのだ。「先生は、いつも爽やかに挨拶しながら入って来るよね」と。それ以来、他人の入室の態度が気になるようになった。仕事が出来て余裕がある人ほど、挨拶をきちんとしている。そうなりたくて、まずそこから真似していたようなものだ。
もちろん、その部長も、とてもはきはきと挨拶しながら入ってくる。入ってくる人に、自分から挨拶の声をかける。
仕事って何だろ。好きでしている人なんて本当に限られているんだろう。消極的な選択で就いた仕事に、ほぼ一生従事する。ただ賃金を得るためだけでは、続けることは出来ない。無論、賃金が得られなければ、それは仕事として成立しない。
もう2年ほど前になるんだが、ある大事があった際に、体を張って守ってもらったことがある。ああ、そういえばそのときも、その事後に「隙があるんだ」と叱られた。つごう2度だ。そして最近では僕が、仲間に「隙があるんじゃないか」というようになった。
仕事であっても、そうでなくても、スキルアップ出来る人と出来ない人とがいるのだと思う。出来ないヤツは、自分の力がないゆえ、他人を貶め自分に並ばせたり自分の下に置こうとしたりする、あるいは他人の力を盗もうともする。卑劣でカスみたいなヤツは、現実にいる。多分、そういった劣等感に塗れた連中の人生なんて、屈辱とどす黒い不満とに染まっていてさぞかしつまらないことだろう。
何であれ、ジャンプすることだ、と思わせてくれる人の側にいられることは幸せである。そのためには、どこまでジャンプしたいか、自分で目的地を想定しなければならない。それが高い方が、人はスキルを磨こうとするだろう。正当な方法で。そうして、目的地に届き、また次の目的地を想定し、研鑽し、ジャンプし、また届き、…していくなかで、僕らはきっと仕事に対して、結構面白いな、と思うことも出来るようになる筈。
仕事が出来る人ってめちゃめちゃカッコいいのな。
アカデミーのこれまでの(個人的な)(かつ無謀な)試みの足跡はこちら
華々しい戦跡の跡、…。
華々しい戦跡の跡、…。
もう10年も前になる。新卒で入った会社を辞めた。その理由はまたいつか別の場所でいいわけがましく書くこともあるだろう。
その20歳代後半のある時期、僕は本当に貧乏で、ただ小説のことばかり考えていた。なんかギラギラしていたなー、と思わなくもないが、その荒削りなギラギラぶりはときどき懐かしい。女の子のことも考えてなかった。ある意味、純粋ではあったけれども、這い蹲るような日々。
あまりの貧乏に見かねたか、知人の女性から「ライターの仕事をしないか」と声をかけられた。
「小さな出版社が、ある詩人の半生記を出版しようとしている。ただ、書ける人がいない」
どうですか? という誘いに飛びつくと、その女性は少し怪訝な顔になった。訊ねると、小説を書いている人は普通、こういう仕事は筆が汚れるといってやらないのだ、との説明。
へえーっ、と今度は僕が怪訝な顔になる。その程度で汚れる筆ではないし、といいながらも、ライターとしう言葉の響きと未知の経験に興味津々だったのだ。しかもお金になる。
その女性にまずは出版社の社長を紹介され、それから日を置いて、今度はその社長から「その詩人を紹介するから」といわれた。
「元々は西成に住んでいた人で、いわゆる釜ヶ崎の詩人。まあ、面白いおっちゃんや」とのこと。
連れて行かれたのは泉南の方で、そこにその詩人は、いまは自分で屋根つきのガレージを借りて事務所とし、自身の主宰する同人誌の印刷もしながら暮らしているのだという。
詩人の名前は東淵修といった。
その世界ではそれなりに有名、しかし異端視もされている。杉山平一さんは「うろんなヤツや、お前は」といった。平居謙さんは、「ホンマに朗読が上手いのは、そやな、西では東淵修やな」といわれた。
そのおっちゃんが泉南に引きこもっていたのは、西成にあったおかあちゃんのアパートを諸事情により引き払わねばならず、一時、といった思いからであったらしい。
駅からほど近い辺りにある屋根つきの車庫。もしくは倉庫として使われていると思しい一角に、ドアが付けられていた。そこが『銀河詩手帖』の編集事務所だった。驚いたことに、狭いそのスペースに大きな活版印刷の機械がある。
「これで自分で印刷してるんや」と詩人はいった。
このとき、もう60歳だったか。なのに、とてもギラギラした人だという印象を僕は受けた。子どもっぽいやっかみや、自慢や、うぬぼれを抱えたままその人は老人になり、そして僕の目の前にいた。慕ってくる仲間、身内には異常なまでに優しく、自分に対立する人には子どものように悪口をいった。
僕は、2週間に1度だか、その事務所に通った。
そこで2時間ほどインタビューを行う。テープに録り、家に持ち帰り文字に起こす。それを詩人は校正する。語句、特におっちゃん特有の関西弁については厳しく校正が入った。内容についてはほとんどそのままで使わせてくれた。もちろん、これも仕事だと思っているので、僕はかなり、本として面白いだろうと思う修辞を施し、あまりに書きづらい悪口はやんわりとしたものに変え、順番を入れ替えることもあった。それもほぼすべてスルーさせてくれた。
「あんたの考えもあるやろ」といわれた。
インタビューが終わると、近所の喫茶店に行くことがあった。同人のYさんというおじさまがいつも来られていて、3人で、だった。店に入ると、貧乏な筈の詩人は「あんた、コーヒーだけやなく、カレーもどうや」といい、僕が返事をする前に、「カレー3つな」というのだった。
他人に親切にするのがとても好きな人だった。その親切は、見栄と交じり合っていたが、男らしいカッコよさを備えているように僕には見えた。
取材と称して三人で西成にむかったこともある。新世界ではなく、釜ヶ崎の、三角公園や西成警察やがある、本当に危ないといわれている辺り。
『銀河詩手帖』のイベントに引っ張り出されたこともある。
そこで僕はマイクを前にして自分の詩を読んだ。ああ、そうか、僕のリーディングライブデビューはこのときだな。
半年ほどの取材を経て、僕はすべての原稿を書き終えた。構成を考え、メインとなる記事を選びそれを中心に章立てをした。本のタイトルをどうするか、といった段で、『おれ・ひと・釜ヶ崎』というタイトルを僕は提案した。詩人も、出版社の社長もそれで、O.K.をくれた。いいタイトルだと、自負している。
出来上がった本は、ひとりの詩人を通して、ある時期の関西の詩のシーンが手に取るように判る本になった。このあとも数冊、僕は手がけたが(なかには中途半端になってしまったものもあるが)、『おれ・ひと・釜ヶ崎』はベストワークだといまでも思っている。
もっと売れて、読まれていい本だった。
その東淵さんの訃報を聞いた。
× × ×
大阪市西成区のあいりん地区(釜ケ崎)で暮らす人々の哀歓を表現してきた詩人、東淵修さん(ひがしぶち・おさむ)さんが24日、急性心筋梗塞(こうそく)のため、大阪市の病院で死去した。77歳だった。葬儀は近親者で行う。
「あいりん地区」という言い方がおっちゃんは嫌いだった。
その仕事を終え、出版社が一時、ヤクザに追われるようになり、僕は次第にその社長の下を離れた。残念なことにおっちゃんともそれっきりである。
金について、女について、あれこれ他人はいうけれども、それはそれやったやんけ。
訃報のニュースに接し、とても懐かしい気分になった。その頃と比べて、僕がどれだけ変わったは図りようがない。ただ確実に、何かは変わってしまったことだろう。それは判る。
その20歳代後半のある時期、僕は本当に貧乏で、ただ小説のことばかり考えていた。なんかギラギラしていたなー、と思わなくもないが、その荒削りなギラギラぶりはときどき懐かしい。女の子のことも考えてなかった。ある意味、純粋ではあったけれども、這い蹲るような日々。
あまりの貧乏に見かねたか、知人の女性から「ライターの仕事をしないか」と声をかけられた。
「小さな出版社が、ある詩人の半生記を出版しようとしている。ただ、書ける人がいない」
どうですか? という誘いに飛びつくと、その女性は少し怪訝な顔になった。訊ねると、小説を書いている人は普通、こういう仕事は筆が汚れるといってやらないのだ、との説明。
へえーっ、と今度は僕が怪訝な顔になる。その程度で汚れる筆ではないし、といいながらも、ライターとしう言葉の響きと未知の経験に興味津々だったのだ。しかもお金になる。
その女性にまずは出版社の社長を紹介され、それから日を置いて、今度はその社長から「その詩人を紹介するから」といわれた。
「元々は西成に住んでいた人で、いわゆる釜ヶ崎の詩人。まあ、面白いおっちゃんや」とのこと。
連れて行かれたのは泉南の方で、そこにその詩人は、いまは自分で屋根つきのガレージを借りて事務所とし、自身の主宰する同人誌の印刷もしながら暮らしているのだという。
詩人の名前は東淵修といった。
その世界ではそれなりに有名、しかし異端視もされている。杉山平一さんは「うろんなヤツや、お前は」といった。平居謙さんは、「ホンマに朗読が上手いのは、そやな、西では東淵修やな」といわれた。
そのおっちゃんが泉南に引きこもっていたのは、西成にあったおかあちゃんのアパートを諸事情により引き払わねばならず、一時、といった思いからであったらしい。
駅からほど近い辺りにある屋根つきの車庫。もしくは倉庫として使われていると思しい一角に、ドアが付けられていた。そこが『銀河詩手帖』の編集事務所だった。驚いたことに、狭いそのスペースに大きな活版印刷の機械がある。
「これで自分で印刷してるんや」と詩人はいった。
このとき、もう60歳だったか。なのに、とてもギラギラした人だという印象を僕は受けた。子どもっぽいやっかみや、自慢や、うぬぼれを抱えたままその人は老人になり、そして僕の目の前にいた。慕ってくる仲間、身内には異常なまでに優しく、自分に対立する人には子どものように悪口をいった。
僕は、2週間に1度だか、その事務所に通った。
そこで2時間ほどインタビューを行う。テープに録り、家に持ち帰り文字に起こす。それを詩人は校正する。語句、特におっちゃん特有の関西弁については厳しく校正が入った。内容についてはほとんどそのままで使わせてくれた。もちろん、これも仕事だと思っているので、僕はかなり、本として面白いだろうと思う修辞を施し、あまりに書きづらい悪口はやんわりとしたものに変え、順番を入れ替えることもあった。それもほぼすべてスルーさせてくれた。
「あんたの考えもあるやろ」といわれた。
インタビューが終わると、近所の喫茶店に行くことがあった。同人のYさんというおじさまがいつも来られていて、3人で、だった。店に入ると、貧乏な筈の詩人は「あんた、コーヒーだけやなく、カレーもどうや」といい、僕が返事をする前に、「カレー3つな」というのだった。
他人に親切にするのがとても好きな人だった。その親切は、見栄と交じり合っていたが、男らしいカッコよさを備えているように僕には見えた。
取材と称して三人で西成にむかったこともある。新世界ではなく、釜ヶ崎の、三角公園や西成警察やがある、本当に危ないといわれている辺り。
『銀河詩手帖』のイベントに引っ張り出されたこともある。
そこで僕はマイクを前にして自分の詩を読んだ。ああ、そうか、僕のリーディングライブデビューはこのときだな。
半年ほどの取材を経て、僕はすべての原稿を書き終えた。構成を考え、メインとなる記事を選びそれを中心に章立てをした。本のタイトルをどうするか、といった段で、『おれ・ひと・釜ヶ崎』というタイトルを僕は提案した。詩人も、出版社の社長もそれで、O.K.をくれた。いいタイトルだと、自負している。
出来上がった本は、ひとりの詩人を通して、ある時期の関西の詩のシーンが手に取るように判る本になった。このあとも数冊、僕は手がけたが(なかには中途半端になってしまったものもあるが)、『おれ・ひと・釜ヶ崎』はベストワークだといまでも思っている。
もっと売れて、読まれていい本だった。
その東淵さんの訃報を聞いた。
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大阪市西成区のあいりん地区(釜ケ崎)で暮らす人々の哀歓を表現してきた詩人、東淵修さん(ひがしぶち・おさむ)さんが24日、急性心筋梗塞(こうそく)のため、大阪市の病院で死去した。77歳だった。葬儀は近親者で行う。
「あいりん地区」という言い方がおっちゃんは嫌いだった。
その仕事を終え、出版社が一時、ヤクザに追われるようになり、僕は次第にその社長の下を離れた。残念なことにおっちゃんともそれっきりである。
金について、女について、あれこれ他人はいうけれども、それはそれやったやんけ。
訃報のニュースに接し、とても懐かしい気分になった。その頃と比べて、僕がどれだけ変わったは図りようがない。ただ確実に、何かは変わってしまったことだろう。それは判る。



